主として軍人,軍属などに関する刑事裁判を取り扱う特別裁判所。戒厳令下,占領下など軍の行政下に置かれる場合には軍人,軍属以外もその対象となる。イギリスにおいては1689年の反乱法Munity Actによって軍法会議の設置が認められたのが最初である。イギリスの軍法会議には,5名以上の判士からなり,すべての犯罪を審理する一般軍法会議,3人以上の判士からなり,2年間の拘禁を限度とする地区軍法会議,イギリス国外で開かれる野戦一般軍法会議とがある。アメリカには,最低5名の判士(ふつうは将校であるが,起訴された兵士の要求によっては最低3分の1は兵の判士で構成できる)と判事役の法務将校1名からなり,軍法に基づくすべての犯罪を審理する一般軍法会議,3名以上の判士からなり,懲戒免職,6ヵ月以下の拘禁,6ヵ月以下の3分の2減俸などを判決する特別軍法会議,特別軍法会議にかけられる者が要求できる,軍事判士1人による略式軍法会議(将校,特別の階級をもつ者はその対象外)がある。フランスの軍法会議は6名の将校と1名の当該地方の文民裁判官(裁判長となる)からなる。
日本の場合1872年(明治5),兵部省の一局,糺問司による〈軍法会議〉の〈仮会議〉を設け,軍法会議の事を行わせようとしたが,結局〈陸軍裁判所〉の設置がその発端となった。日本の軍法会議制度はフランスの制度にならったもので,フランス語のコンセイユ・ド・ゲールconseil de guerreを軍法会議と訳したものである。この当時のフランスにおける軍法会議制度は1857年以来,(1)陪審の精神にのっとり,被告人の同等官によること,(2)軍法会議の判決に対する上訴は平時にあっては大審院(破毀院),戦時にあっては高等軍法会議になすこと,(3)海軍においては軍法会議以前に軍港,工厰における安寧を害すべき一般人の犯罪を審判するための海軍裁判所を置く,という内容であった。82年陸軍裁判所廃止により東京に軍法会議が創設され,83年陸軍治罪法で制度化された。前述のフランス式内容である陪審の精神は,準士官以上には生かされたが,一般兵卒については佐官,尉官が判士としてあたることになった。
陸軍治罪法は憲法との関連で88年に全編改正されたが軍法会議の内容・手続は基本的に変化しなかった(ここまでの経過は海軍もほぼ同一)。大正期になって軍法会議の審理判決の公開,弁護人の弁護,上訴の道,の3点を要求する改正の意見が学者や法曹界より起こり,これをある程度加味したものが,1921年原敬内閣時に公布された陸海軍軍法会議法である。陸軍軍法会議常設のものは高等(上告審),師団(一審),特設のものは軍,独立師団,独立混成旅団,兵站(へいたん),合囲地,臨時のそれぞれの軍法会議である。
海軍の場合,常設は高等(上告審),東京,鎮守府,要港部(以上一審)で,特設は艦隊,合囲地,臨時のそれぞれの軍法会議である。常設と特設のおもな違いは前者が上訴,弁護人を選任すること,弁論の公開が可能なのに対し,後者にはそれが許されていないことである。〈陪席の精神〉の現実の程度は1883年の治罪法と同様である。
軍法会議の裁判権は,陸・海軍刑法に定められた軍人,軍所属の学生,生徒,軍属,陸・海軍用船の船員,その他陸・海軍の部隊に属しまたは従うもの,ならびに俘虜に対してある。さらに戦時・事変戒厳に際し,一定の一般的刑事事件についても裁判権を行使することができた。軍法会議は軍隊指揮官を長官とし,陸海軍将校からの判士・文官の陸海軍法務官によって構成される。軍法会議は天皇の司法大権の発動によるもので軍事大権の発動によるものではないが,裁判官の過半は将校によって充たされ,軍に隷属し軍紀を維持し軍の秩序を厳正ならしむることを主たる目的とし,完全な司法独立機関ではなかった。なお,二・二六事件では,緊急勅令によって前記以外の特設の東京陸軍軍法会議が設けられた。五・一五事件,相沢事件,二・二六事件等における軍法会議が著名であるが,兵営内,占領地等における一般の兵士や住民に対するより日常的で多量の裁判の実態も重要である。戦後は日本国憲法第16条2項で特別裁判所の設置は法の下の平等原理に反し,最高裁を頂点とする組織体系にもなじまぬため,禁じられている。なお,現在多くの国に軍法会議の制度が存在している。
→軍事司法制度
執筆者:雨宮 昭一
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軍に属する特別の刑事裁判所をいう。軍法会議は、市民革命前のフランスにおいて、国王が出征部隊に特別の処罰機関を設けて、兵士の犯罪や軍紀違反を処罰させたことに始まる。同国では、1857年に法律によって軍法会議制度を整備した。
日本では明治維新以後、初め兵部省内に糺問司(きゅうもんし)が設けられ、のちに陸・海軍各省内に陸軍裁判所・海軍裁判所が設けられたが、1883年(明治16)の陸軍治罪法により陸軍軍法会議が、また84年の海軍治罪法により海軍軍法会議が法定され、1921年(大正10)の陸軍軍法会議法・海軍軍法会議法により改正され、46年(昭和21)に廃止されるまで存続。軍法会議には、たとえば陸軍の場合、高等・軍・師団軍法会議のような常設のものと、戒厳宣告の際の合囲地軍法会議および戦時・事変の際に編成された部隊の臨時軍法会議のような特設のものとがあった。陸軍軍法会議の場合、裁判権は、陸軍の軍人、召集中および勤務中の在郷軍人、軍属などの準軍人、陸軍用船船員、俘虜(ふりょ)に及び、裁判官は判士(陸軍兵科将校)、陸軍法務官より構成された。また被告人は、弁護人として、陸軍将校・陸軍高等文官または同試補・陸軍大臣指定の弁護士のなかから選任することができた。
戦後、日本国憲法第76条2項は特別裁判所の設置を禁止したので、軍法会議を設けることは違憲と考えられる。
[古川 純]
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通常裁判所の管轄に属さない軍人の犯罪を裁判するための特別裁判所。1869年(明治2)8月兵部省に糺問司(きゅうもんし)を設けたことに始まり,のちに陸軍裁判所と海軍裁判所となった。陸軍は82年,海軍は84年それぞれの裁判所を廃して軍法会議を設置した。かねて陸軍治罪法と海軍治罪法により制度化されてきたが,1921年(大正10)4月26日,全面改正されて陸軍軍法会議法と海軍軍法会議法が基本法となった。常設と特設の2種があり,訴訟手続きの点で大きな差があり,常設は公開,弁護人付,上告可能であるのに対し,特設は非公開,弁護人なし,一審制であった。裁判官は判士と法務官から構成された。46年(昭和21)5月18日公布の勅令で廃止。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…罰として体刑(笞刑(ちけい)など)や死刑が頻繁に行われ,デシメーションdecimation(兵士10人につき1人を処刑する処刑者選択制度)という古式の刑も行われた。中世の軍事裁判は単純,粗野であり,代表的な例はイギリスのリチャード1世が十字軍内部の窃盗や争いを禁じた1190年の律令であるが,手続規定や軍法会議はなかった。中世後期,西欧にはかなり精密な軍法典が現れ,一部はローマの先例にならい,一部はフランクやゲルマン諸国の法規慣例に基づいていた。…
※「軍法会議」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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