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ポベドノスツェフ Pobedonostsev, Konstantin Petrovich

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ポベドノスツェフ
Pobedonostsev, Konstantin Petrovich

[生]1827.6.2. モスクワ
[没]1907.3.23. ペテルブルグ
ロシアの政治家,法律家。モスクワ大学教授を父として生れ,みずからも 1859年より同大学で民法を講じた。皇室の信任を得て,皇太子時代のアレクサンドル3世,その子のニコライ2世の訓育にあたり,また 64年の法制改革に参与,68年元老院議員,72年国家評議会議員などにも任じられ,80~1905年には宗務院 (シノド) 長となって,宗教,イデオロギー政策を担当することとなった。その思想は保守的で,専制こそが秩序を維持できると考え,ロシア正教会をその支柱とみなして保護する一方,分離派教徒など非国教徒,ユダヤ人などの少数民族を抑圧した。また民族主義者としてポーランドなど征服地域のロシア化を促進。教育面でも教区学校における初等教育を拡充して,宗教教育を重視する一方,西ヨーロッパ諸国からのすべての影響,特に立憲主義や民主主義などの思潮に警戒の念を示し,高等教育を上流階層の子弟に限るなどして抑制した。 1881年アレクサンドル2世暗殺後,アレクサンドル3世を説得して,いわゆる「ロリース=メーリコフの憲法」を撤回させ,専制強化の宣言 (1881.5.11.) を出させるなどして反動化を促進,アレクサンドル3世治世初期に大きな影響力を発揮した。 80年代末より影響力は衰え,1905年の十月宣言の発布後引退した。 1870年代ドストエフスキーと親交のあったことは有名である。

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世界大百科事典 第2版の解説

ポベドノスツェフ【Konstantin Petrovich Pobedonostsev】

1827‐1907
ロシアの政治家,保守主義的思想家。モスクワ大学教授の息子として生まれ,1846年法律学校を卒業。官吏として元老院事務局に勤務したあと,1860‐65年モスクワ大学の法律学の教授となった。その後68年より元老院議員,72年より国家評議会議員,1880‐1905年宗務院長を務めた。彼はロシアの国土の広さ,国民の構成の複雑さ,民心の遅れなどから,ロシアでは何よりも国家と教会の一体化が必要だとして,ブルジョア的改革や西欧文化の輸入に反対した。

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世界大百科事典内のポベドノスツェフの言及

【シノド】より

…シノドの制度は,正教会に対する皇帝権力の支配を強化するのに貢献したが,ピョートル1世の意図した正教会の近代化には役立たなかった。19世紀の80年代から25年間にわたってオーベル・プロクロールをつとめた政治家ポベドノスツェフは,革命運動と自由主義的思想を弾圧し,皇帝アレクサンドル3世の反動的政治に協力して,シノドに対する批判を招いた。1905年の革命後,オーベル・プロクロールの職が廃止され,シノドの性格も変わった。…

※「ポベドノスツェフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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