改訂新版 世界大百科事典 「アレクサンドル3世」の意味・わかりやすい解説
アレクサンドル[3世]
Aleksandr Ⅲ
生没年:1845-94
ロシアの皇帝。在位1881-94年。ロマノフ王朝の最後から2番目の皇帝。アレクサンドル2世の次男として生まれたが,1865年兄ニコライが病没したことにより皇太子となった。翌年デンマークの王女と結婚。81年3月,父帝がナロードニキの革命家によって暗殺されたため,急遽即位した。思想的には,保守的な政治家ポベドノスツェフの影響を強くうけ,西ヨーロッパ流の立憲主義や議会主義に反対して,専制政治を強化する政策をよしとした。一般に父アレクサンドル2世の行った改革を撤廃したり制限したことから,彼の治世は反改革の時代と呼ばれる。即位直後にロリス・メリコフの立憲主義的な改革案をしりぞけ,89年には地方主事の制度を定めて,農民に対する政府の支配を強化した。また翌90年には新しいゼムストボ法を公布して,農民が地方自治会に直接議員を選出する権利を奪った。さらにロシア国内の少数民族に対しては,ロシア化政策を強制し,ポーランドやバルト地方ではロシア語による教育を義務づけた。またユダヤ人に対しては,一連の立法で土地の取得や移住,高等教育を受ける権利などを制限するとともに,ポグロムと呼ばれる大量略奪と虐殺を許容した。しかし経済の分野では資本主義の発達を助成する政策をとり,人頭税を廃止したり,最初の労働立法を施行したりした。とくに92年にウィッテを大蔵大臣に登用してからは,大規模な鉄道建設を中心にして,急テンポで工業化がすすめられた。外交面では,即位当初ドイツ,オーストリアとの接近をはかって,1881年に三帝同盟を復活させたが,その後次第にフランスに近づき,94年1月最終的に露仏同盟を成立させた。治世全体を通じて,ロシアは国内の治安が悪化しただけでなく,国際的にも不安定な立場に身をおくことにより,次のニコライ2世の時代の破局の遠因をつくったといえよう。
執筆者:外川 継男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報