日本大百科全書(ニッポニカ) 「ポルトガル革命」の意味・わかりやすい解説
ポルトガル革命
ぽるとがるかくめい
1974年4月25日、ポルトガルで起きた無血革命。その計画者がおもに青年将校であったことから、「大尉たちの革命」ともよばれる。1932年以来の長期にわたるサラザール独裁とアフリカ植民地の独立運動の弾圧に対して、1960年代ごろから批判が高まった。1970年サラザールが死んでからのちも、「サラザールなきサラザール体制」とよばれるように彼の体制は維持されたが、1973年に至ってギニア・ビサウやモザンビークにおける独立運動が激しさを増すにつれて、植民地戦争の続行は困難になった。1974年2月、参謀次長であったスピノラが植民地戦争を批判した書物を公刊して、解任されたことが、軍の反乱の引き金となった。4月25日、リスボンで「国軍運動(MFA)」Movimentos das Forças Armadasが反乱を起こし、政府機関や放送局を占領した。
スピノラ将軍が救国軍事評議会代表として臨時政府を組織し、政治犯の釈放、言論・結社の自由を宣言し、サラザール時代の高官を罷免した。国外に亡命していた社会党、共産党の指導者も帰国し、5月1日のメーデーは全参加者がカーネーションを胸につけ、解放感にあふれた「カーネーションの革命」となった。5月15日、スピノラを大統領、サラザールに嫌われていた弁護士パルマ・カルロスを首相とし、社会党、共産党を閣内に入れた軍民連合の新政権が発足した。内閣とは別に、大統領の諮問機関としてMFAを含む国政評議会が生まれた。しかし、諸政治勢力の間にひびが入り、パルマ・カルロス首相は7月に辞任して、左派の青年将校団に支持されたMFAのバスコ・ゴンサルベス大佐が首相となった。この内閣の下で海外領土の独立権が承認され、ギニア・ビサウとモザンビークの独立が認められた。ゴンサルベス内閣は左派の将校と共産党などに支持されてスピノラと意見が対立し、9月のスピノラ派のデモを鎮圧し、スピノラは大統領を辞任した。ポルトガル革命は、同国の民主化への道を開き、植民地帝国を解体させた。その特徴は軍隊と左翼勢力の結合にあった。
[斉藤 孝]
『W・バーチェット著、田島昌夫訳『ポルトガル革命』(1976・時事通信社)』