モザンビーク(読み)もざんびーく(英語表記)Mozambique

翻訳|Mozambique

日本大百科全書(ニッポニカ) 「モザンビーク」の意味・わかりやすい解説

モザンビーク(国)
もざんびーく
Mozambique

アフリカ南東部、インド洋モザンビーク海峡に面する国。北はタンザニア、マラウィ、ザンビア、西はジンバブエ、南は南アフリカ共和国、エスワティニ(旧、スワジランド)と、六つの国と国境を接する。面積79万9380平方キロメートル、人口3125万5000(2020世界銀行)。首都は、国土の南端に位置するマプート。正式名称は、モザンビーク共和国Republic of Mozambique。

[寺谷亮司 2022年3月23日]

自然

地勢は、インド洋沿いに2500キロメートルを超える海岸線をもち、ビーチとサンゴ礁の浅瀬がみられる。内陸に向かって海抜高度は増し、ジンバブエ国境の国内最高峰ビンガ山の標高は2436メートルである。

 国土は、南部アフリカ最長のザンベジ川によって二分される。南部は、海岸平野が広く発達し、海岸には砂州やラグーン地形が卓越する。北部は、海岸平野が比較的狭く、平均高度1000メートルの丘陵や台地が広がる。河川は西から東に流れ、代表河川は北部のルリオ川、中部のザンベジ川、南部のリンポポ川である。ザンベジ川のテテ上流に建設されたカホラ・バッサ・ダム(カボラ・バッサ・ダム)には長さ240キロメートル、最大幅30キロメートルのダム湖があり、その水で発電される電気は南アフリカ共和国に送電されている。

 気候は、暖流のモザンビーク海流が沖合を南流するため、寒流のベンゲラ海流が北流するアフリカ西岸に比べて、高温多雨である。国土の大半はケッペン気候区分によれば、雨期・乾期が明瞭なAw(熱帯サバナ)気候に属する。雨期は11~4月であり、降水量は北部ほど多くなる。1~3月にはインド洋からのサイクロンが来襲し、河川流域では大規模な水害がしばしば発生する。とくに大きな最近の水害被害は、2000年2~3月に中部・南部、2019年3月に中部で発生した。

 典型的な自然景観は、海岸部ではマングローブやヤシ類、内陸部は残丘地形としての孤立岩山を背景として、カシューナッツバオバブなどの疎林や草原が広がるサバナ景観である。

[寺谷亮司 2022年3月23日]

歴史

原住民は狩猟採集民族のサンである。7世紀ころからバントゥー系の農耕アフリカ人諸民族が北方より南下して定住した。14世紀にはショナ族のモノモタパ王国が、現在のジンバブエとザンベジ川からサベ川に至るモザンビーク中部にまたがる広い領土を支配し、アラブ人との金交易で繁栄した。海岸部では、8世紀ころからアラブ人がモザンビーク島を中心に交易都市を建設したが、1498年にバスコ・ダ・ガマが来訪するなど、ポルトガル人によって駆逐された。

 17世紀以降は、ポルトガル人の入植が進み、大農園主となってアフリカ人を強制労働させ、ポルトガルの支配が確立した。奴隷貿易は18世紀に最盛期となり、多くの奴隷が中部ケリマネ港からブラジル、フランス領レユニオン島、マダガスカルへ移送された。

 1884~1885年のベルリン会議において、ヨーロッパ列強がアフリカ分割を話し合ったときに、モザンビークはポルトガル領東アフリカとなった。ポルトガル政府は、特許会社に商業、鉱業利権、徴税権を与えて、内陸部の開発にあたらせた。1886年にトランスバール(南アフリカ共和国)で金鉱脈が発見され、最短輸送ルートとしてロレンソ・マルケス(現、マプート)港の重要性が高まり、鉄道が敷設された。植民地首府は1898年に、北部のモザンビーク島からロレンソ・マルケスに移された。

 ポルトガルの植民地支配に対し、1962年にモンドラーネEduardo Mondlane(1920―1969)を議長とし、ソ連(当時)と中国の支援を受けるモザンビーク解放戦線FRELIMO(フレリモ):Frente de Libertação de Moçambique)が結成され、タンザニアを基地として1964年から武力闘争を開始した。1974年4月のカーネーション革命によって成立したポルトガルの新軍事政権は植民地の解放を宣言し、1975年6月25日にモザンビークはモザンビーク人民共和国として独立を達成した。しかし1977年から、ローデシア(現、ジンバブエ)や南アフリカ共和国の支援を受けたモザンビーク民族抵抗運動(RENAMO(レナモ):Resistência Nacional Moçambicana)との戦闘が激化し、モザンビークは内戦状態となった。内戦は、100万以上の死者を出し、1992年の政府とRENAMOとの包括和平協定調印まで継続した。

[寺谷亮司 2022年3月23日]

政治

1975年の独立後、権力を握ったFRELIMOは、一党制による社会主義路線を推進し、1977年の党大会では公式にマルクス・レーニン主義を掲げ、ソ連や中国との密接な関係を継承した。RENAMOとの内戦は長期化し、経済が疲弊して、東欧革命ソ連崩壊による東側諸国の勢力低下がみられるなか、1986年10月に、初代大統領マシェルSamora Moisés Machel(1933―1986)が飛行機事故で死亡し、翌月シサノJoaquim Alberto Chissano(1939― )が後任の大統領に就任した。

 シサノは、1987年に世界銀行・国際通貨基金(IMF)の勧告による経済復興計画を容認して実施し、西側諸国との関係を強めた。さらに、1989年の党大会ではマルクス・レーニン主義を放棄し、1990年には複数政党制の導入を認め、国名をモザンビーク共和国に改称した。1994年10月、国際連合モザンビーク活動(ONUMOZ:United Nations Operation in Mozambique。国連平和維持軍)の支援のもと、複数政党制による初の大統領選挙と国民議会選挙が実施され、与党のFRELIMOが勝利し、以後の選挙でもFRELIMOが政権を維持している。

 モザンビークは任期5年の大統領を国家元首とする共和制をとっている。独立後の大統領とその任期をみると、初代マシェル(1975~1986)、2代シサノ(1986~2005)であり、1994年、1999年の第1回、第2回総選挙では、シサノが再任された。2004年の総選挙ではゲブーザArmando Emílio Guebuza(1943― )が大統領に選出され、2009年の総選挙で再選された。2014年の総選挙では、ニュシFilipe Jacinto Nyusi(1959― )が大統領に選出され、2019年の総選挙で再選された。

[寺谷亮司 2022年3月23日]

経済・産業

独立後のモザンビークでは農業を基盤とする社会主義国家の建設が目ざされたが、長い内戦によって耕地は戦場となり、ポルトガル人資本家や技術者の国外流出、干魃(かんばつ)や水害も多く、モザンビーク経済は疲弊し、世界最貧国の一つとなった。

 農業は現在でも労働力人口の7割以上が従事する基幹産業である。主要な換金作物は、カシューナッツ、砂糖、コプラ、綿花であり、食糧作物としてのトウモロコシ、米、小麦は輸入に大きく依存している。

 漁業も重要な産業であり、とくにエビは日本向けの主要輸出品の一つである。

 内戦終了後の1990年代後半以降、モザンビーク経済は急速に発展し、1996年から2006年までの経済成長率は年平均8%を記録した。経済の成長要因は、安定した政治・社会情勢下での外国からの投資による資源の開発・活用である。その最大かつ代表的存在が、1998年に南アフリカ共和国や日本の三菱(みつびし)商事などの投資によって誕生したモザールMozal社であり、安価な電力を活用し、オーストラリアからの輸入アルミナを原料とするアルミニウム精錬事業を2000年に開始した。アルミニウムは現在もモザンビークの主要輸出品である。

 日本企業は、中部・テテ州の石炭開発や北部沖合の天然ガス田開発事業にも参画している。ただし、北部沿岸のカーボ・デルカード州ではイスラム過激派の活動が活発化したことで、天然ガス開発事業は2021年に中断を余儀なくされた。

 ブラジルと日本の政府開発援助(ODA)事業として2011年に開始され、北部内陸地域での大規模大豆栽培農業の確立を目ざした「プロサバンナ」事業も、小規模農家の生活を破壊するなどの批判によって、2020年に中止された。

 近年の経済成長率をみると、2010年代前半は高率の7%台を維持したが、2016年以降は急落しており、観光産業の振興など、外国投資に依存しない経済・産業の確立が望まれる。

[寺谷亮司 2022年3月23日]

社会・文化

住民のほとんどは約40の民族に分かれるバントゥー系のアフリカ人である。ほかにはポルトガル人などの白人、インド人、混血の住民が居住している。

 宗教はキリスト教、とくにカトリックが普及し、人口の約4割が信仰。イスラム教徒は北部沿岸部を中心に約2割を占め、その他の住民は伝統的な民族固有の宗教を信仰している。

 公用語はポルトガル語であるが、マクア語、ショナ語などの各民族のバントゥー諸語が基本的に話され、北部沿岸部ではスワヒリ語も浸透している。

 もっともよく知られた美術・芸術は、タンザニア南部からモザンビーク北部に居住するマコンデ民族によるダンスや黒檀(こくたん)使用の木彫品である。

[寺谷亮司 2022年3月23日]

日本との関係

日本とは1977年に外交関係を樹立した。在タンザニア日本大使館(1978~1985)、在ジンバブエ日本大使館(1985~1998)、在南アフリカ共和国日本大使館(1999)が業務を兼轄していたが、2000年1月に日本国大使館が開設された。

 日本へはおもに石炭、チタン鉱、ゴマ、エビを輸出し、乗用車、バス・トラック、自動車部品、電気機器を輸入している。在留邦人数は124人(2020)。

[寺谷亮司 2022年3月23日]

『舩田クラーセンさやか著『モザンビーク解放闘争史――「統一」と「分裂」の起源を求めて』(2007・御茶の水書房)』『水谷章著『モザンビークの誕生――サハラ以南のアフリカの実験』(2017・花伝社)』



モザンビーク(モザンビークの都市)
もざんびーく
Moçambique

アフリカ南東部、モザンビーク北東部の港湾都市。本土より5キロメートル離れた同名の島に位置する。人口約1万5000。1498年バスコ・ダ・ガマが寄港し、1508年ポルトガルの基地となり、1907年までポルトガル領東アフリカの首都であった。モザンビーク最古の都市で、1511年に建設された聖セバスチャン要塞(ようさい)など植民地時代の景観を残している。1991年モザンビーク島は世界遺産の文化遺産(世界文化遺産)に登録された。

[林 晃史]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「モザンビーク」の意味・わかりやすい解説

モザンビーク
Moçambique

正式名称 モザンビーク共和国 República de Moçambique。
面積 79万9380km2
人口 3083万2000(2021推計)。
首都 マプト

アフリカ大陸南東部の国。独立まではポルトガル領東アフリカと呼ばれていた。北はタンザニア,マラウイ,ザンビア,西はジンバブエ,エスワティニ,南アフリカ共和国と国境を接し,東はインド洋モザンビーク海峡に臨む。北部と,西部のジンバブエとの国境沿いは山がちであるが,沿岸地方には平野が広がる。中央部をザンベジ川が,南部をリンポポ川がそれぞれ南東流してモザンビーク海峡へ注ぐ。国土の約 4分の3は高原サバナで,気候はザンベジ川以北では 10月~3月が高温多湿の雨季,4~9月が冷涼乾季であり,同川以南は季節は明瞭でない。高度の高い内陸部は比較的温和である。沿岸部には古くからアラブ人が居住していたが,1498年バスコ・ダ・ガマモザンビーク島に上陸,以来ポルトガル人が進出し,1875年にはローレンソマルケス湾(現マプト湾)のポルトガル領有権が確立,その後,沿岸部から内陸部へとポルトガルの支配が広がった。1891年にイギリス領のニアサランド(現マラウイ),北ローデシア(現ザンビア),南ローデシア(現ジンバブエ)および南アフリカ共和国との境界が画定した。1942年にはポルトガル直轄地,1951年にはポルトガルの海外州の一つとなった。1964年以降北部を中心に独立運動が起こり,激しい独立戦争の末,1974年9月ポルトガル政府とモザンビーク解放戦線の間で独立交渉がまとまり,解放戦線を中核とする暫定政府が発足,1975年6月に人民共和国として独立した。以後解放戦線による一党独裁が続いたが,1989年マルクス主義を放棄,1990年複数政党制を導入して共和国となった。しかし反政府ゲリラの破壊工作などで大量の難民が生まれている。主産物はカシューナッツ,砂糖,綿花,サイザルアサ,チャ(茶),木材,ココナッツ製品など。石炭が採掘されているが,未開発の鉄鉱石,ボーキサイト,マンガン,ダイヤモンド,石綿などの鉱脈が発見されている。マプトを中心に近代的工業がみられる。住民の大部分はバンツー系(→バンツー諸語)のアフリカ人。公用語はポルトガル語だが,多くのバンツー方言が用いられている。

モザンビーク
Moçambique

モザンビーク北東部,インド洋にのぞむ港湾都市。ケリマネ北東約 500km,本土から約 5km沖合いにあるサンゴ礁の小島に位置。かつてはアラブ人の居住地であったが,1498年バスコ・ダ・ガマが到来,1508年ポルトガル人が植民し,聖セバスチャン要塞を建立。 1907年までポルトガル領東アフリカの首都であった。 16世紀に建てられた古い家並みが残る。商業中心地で良港をもち,トウモロコシ,綿花,ナンキンマメ,コーヒー,タバコ,木材,サイザルアサなどを積出す。人口3万 7773 (1986推定) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報