ポルトガルの政治家。ビゼウ県サンタ・コンバ・ダンの貧農の家に生まれる。11歳で神学校に入ったが,1910年コインブラ大学法学部に入学し,17年経済学助教授。ローマ教皇レオ13世の社会カトリシズム,C.モーラスの政治思想の強い影響を受け,第1次大戦後は第一共和制に反対する右翼保守陣営の論客として伝統的な中産階級の支持を得ていた。26年5月のクーデタで民主的議会制を倒した軍事独裁政権から蔵相に招へいされ(1928),財政支出の全権を委譲されて積年の財政危機を克服し,一躍ポルトガルの〈救世主〉となった。単一政党の〈国民同盟〉を組織し,32年には首相に任命された。翌33年新憲法を公布し,組合主義的権威主義的〈新国家(エスタード・ノボ)〉体制を樹立した。国内の左右の反体制運動を弾圧し,36年スペイン内乱が始まると,首相,蔵相のほかに国防相,外相を兼任して権力を一身に集中し,体制防衛のために二つのファシスト的団体〈ポルトガル軍団〉と〈ポルトガル青年団〉を組織した。40年にはローマ教皇庁と協約を結んで,第一共和制下に失墜した教会の権威を回復することによって,軍部,資本家・銀行,教会を基盤とする独裁体制を確立した。第2次大戦前は日本でも〈温和なファシスト〉として評価された。第2次大戦では中立を守ったが,枢軸国側に好意的な姿勢を示した。しかし,43年イギリスへのアゾレス基地貸与を通じて連合国側に接近し,大戦後も検閲,秘密警察を強化して独裁政治を続けた。国連決議に抗して植民地維持に固執したため,61年アンゴラに始まるアフリカ植民地戦争を招いた。サラザールは,NATO諸国との関係強化,外資導入による工業化,植民地開発を推進して戦争を続けたが,69年事故がもとで引退した。後継者のマルセロ・カエタノは徐々に国内の自由化を図りながらも戦争を継続したため,74年4月戦争に反対する青年将校団のクーデタで体制は崩壊した。
執筆者:金七 紀男
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ポルトガルの政治家。貧農の子に生まれたが、経済学を学びコインブラ大学教授となった。1928年に将軍カルモナAntónio Óscar de Fragoso Carmona(1869―1951)の独裁下に財政の全権をゆだねられて蔵相に就任し、ポルトガルでは数十年ぶりに予算を均衡させ、財政を再建した。1932年には首相に就任し、以来事実上の独裁者として1968年まで36年間支配し続けた。この間、1933年には、権威主義的原理とカトリック的社会正義の観念を結合した新憲法を制定し、カトリック的な国家統一党以外の全政党を禁止して一党独裁を確立した。第二次世界大戦中は中立の立場をとり、戦後はポルトガルを北大西洋条約機構(NATO(ナトー))に加盟させるなどアメリカ、イギリスに接近して独裁を維持し植民地支配を続けた。1968年に病に倒れ、カエタノを後任首相に推した。個人的には質素な生活を送った。
[平瀬徹也]
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…正式名称=ポルトガル共和国República Portuguesa面積=9万2082km2(マカオは含まない)人口(1995)=1080万人首都=リスボンLisboa(日本との時差=-10時間)主要言語=ポルトガル語通貨=エスクードEscudoイベリア半島南西部の一隅を占める大陸本土と,大西洋上のマデイラ,アゾレス両諸島とからなる共和国。そのほか中国に海外領土澳門(マカオ)(面積16km2)を領有する。…
※「サラザール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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