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マントノン夫人 マントノンふじんMaintenon, Françoise d'Aubigné, Marquise de

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

マントノン夫人
マントノンふじん
Maintenon, Françoise d'Aubigné, Marquise de

[生]1635.11.28. 〈洗礼〉ニオール
[没]1719.4.15. サンシール
フランスの文人,教育家。詩人 T.A.ドービニェの孫娘。不幸な少女時代を過し,16歳のとき 25歳年長の詩人 P.スカロンと結婚した。夫の死後宮廷に入り,ルイ 14世の庶子の教育にあたった。やがて王の寵愛を受け,1674年マントノン領を得た。 84年王妃没後ひそかに王と結婚。信仰心厚く,王や宮廷に種々の影響を及ぼした。恵まれない貴族の子女のためにサンシールに学院を設立し,晩年は女子教育に専念した。『書簡集』 Lettres (1752) がある。またラシーヌ宗教劇『エステル』と『アタリー』は彼女の要請によって書かれたもの。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

マントノン夫人
まんとのんふじん
Marquise de Maintenon, Franoise d'Aubign
(1635―1719)

フランス国王ルイ14世の寵妃(ちょうひ)。フランスの学校制度の創始者。「フロンドの乱」での反体制派の貴族の娘として生まれる。文学サロンに出入りしているうちに詩人スカロンと結婚。夫の死後、宮廷に入り、ルイ14世とモンテスパン夫人との子供の家庭教師となり、マントノン領を与えられ侯爵夫人の称号も得た。王妃の死後、王と秘密結婚をし、以後、宮廷内で権力を伸ばし、政治にも口出しするようになって、陰の統治者といわれた。しかし一方では、宮廷の華美遊蕩(ゆうとう)の風を正し、とくに教育事業に力を注ぎ、フランスの女子教育と学校制度の開祖となった。王の死後、パリ郊外サン・シールに引退し、その地に、初めて修道院の付属でない教育機関「サン・シール校」を開いて、近代の学校の基を築いた。[榊原晃三]
『アラン・ドゥコー著、川田靖子訳『フランス女性の歴史1』(1980・大修館書店) ▽フランソワーズ・シャデルナゴール著、二宮フサ訳『王の小径』(1984・河出書房新社)』

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世界大百科事典内のマントノン夫人の言及

【サロン】より

…17世紀にはそのほか,ラ・ロシュフーコーの《箴言集》や,J.deラ・フォンテーヌの《寓話》を生み出したサブレ夫人のサロン,多少軽佻な趣があったスカロン夫人Mme.Scarron(1635‐1719。のちのマントノン夫人marquise de Mantenon)のサロンなどがあり,17世紀末には自由思想家(リベルタン)たちを集めたニノン・ド・ランクロNinon de Lenclos(1620‐1705)のサロンも出現した。 ルイ14世が死んで(1715)摂政時代になると,〈古代人と近代人の優劣論争〉(新旧論争)などが行われたランベール夫人marquise de Lambert(1647‐1733)のサロン(1710ころ‐33),華やかな文学遊戯や奔放な風俗で名高いデュ・メーヌ公夫人duchesse du Maine(1676‐1753)のサロン(パリ南郊のソーSceauxの邸で開かれた)などが現れる。…

【スカロン】より

…なおスカロンは不具であったが,1652年アグリッパ・ドービニェの孫娘と結婚した。この女性が将来,ルイ14世の晩年の寵妃マントノン夫人となる。【福井 芳男】。…

※「マントノン夫人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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