フランス古典悲劇を完成した天才。東部フランスの小村ラ・フェルテ・ミロンで12月29日受洗、塩税官の息子として生まれる。幼時父母を失い、無一文で祖父母に養育された。この境遇のため出世欲が強い。誕生の前年ポール・ロアイヤルの尼僧院を拠点とするキリスト教の一派ジャンセニスム(悲観的宿命論のため異端視された)が弾圧され、父の従兄弟(いとこ)の師で、同派の隠者らが村へ逃れてきた。その縁で、叔母が尼僧になり、1649年祖母も同地に隠棲(いんせい)、孤児のラシーヌは隠者が営む小学院に無償入学し教育され、彼の信仰と芸術に宿命感が刻まれる基となった。53年他の学院へ送られ上級に進み、55年隠者のもとへ戻り、ルメートルAntoine Lemaistre(1608―58)についてギリシアを主とする古典文学を研究、後の取材源となる教養を積み、文学志望を固めた。
[岩瀬 孝]
1658年パリで普通教育を修了、親類の縁故で大貴族邸の雑務に従事、文壇に出入りして、ラ・フォンテーヌを知る。60年から61年に書いた2編の悲劇は未上演で、原稿は散逸。ルイ14世の婚礼を祝う長詩で、文壇の長老シャプランに知られる。僧侶(そうりょ)の職禄(しょくろく)を得るため伯父が司教総代理を務める南仏ユゼスに行くが、1件の訴訟が長引き、詩作読書の生活に倦(う)み、63年パリに戻り、『詩神の盛名』などの詩で年金下賜作家表の末席に入る。64年友人モリエールが、ラシーヌの最初の悲劇『ラ・テバイッド』を上演、これは王子兄弟の権力闘争により一族が滅びる悲劇で、暗さと先輩コルネイユの模倣臭とで不評。翌年末、征服者と抵抗者各自の恋を重点とした『アレクサンドル大王』を準備中、モリエール一座が悲劇に不向きと考え、ブルゴーニュ座Hôtel de Bourgogneに上演させ、モリエール一座の美人女優ラ・デュ・パルクLa du Parc(1633―68)を愛人として引き抜き主演させるという背信を犯した。それにより友交を失うが、作品は歓迎された。66~67年隠者ニコルPierre Nicole(1635―95)が劇作家を非難したのに反発し、恩師らとも決裂する。
[岩瀬 孝]
1667年、トロヤの英雄の未亡人の悲運を描く5幕悲劇『アンドロマック』は、内容に応じた屈折をもつ自然で優美な韻文で、宿命的情念による破滅への進行を内面から描くという新風で大成功した。女優ラ・デュ・パルクの変死後は名女優ラ・シャンメーレLa Champmeslé(1642―89)を愛人とし、以後の全作品に主演させる。68年喜劇『訴訟狂』ののち、若き日の暴君ネロと母后の権力闘争を描く『ブリタニキュス』(1670)で政治劇を試み、素材と構成の簡素化に前進した(以上はブルゴーニュ座初演)。70年ラシーヌはローマ皇帝と異国の女王との悲恋という同一主題でコルネイユと競作して勝った『ベレニス』(宮廷初演)で、簡潔な筋立てと宿命感の総合を果たし、ルイ14世の寵(ちょう)を得て下賜金が年々増大する。73年、東方の王父子の反ローマ闘争に恋を絡めた『ミトリダート』が好評。その年アカデミー会員に選ばれる。74年の『イフィジェニー』(宮廷初演)は、ギリシアの遠征軍の陣中で神託の犠牲に指名された王女をめぐり王と勇士が対立する物語で、韻文の諧調(かいちょう)は絶頂に達して成功したが、彼の敵対派も増えた。77年の傑作『フェードル』は、前妻の息子への邪恋に苦しむ王妃を主人公とした悲劇で、反対派の謀略により二流詩人と競作となり不入りに終わった。以後、劇作をやめ旧家の娘カトリーヌ・ド・ロマネCatherine de Romanetと結婚、2男5女をもうける。また王の任命した修史官の職に励み、各地に王と同行する。79年ポール・ロアイヤルへ叔母を訪ねて同派と和解。以後94年、禁圧派の中心パリ大司教に面会して取りなすなどその擁護に努める。
[岩瀬 孝]
1688年、事実上の王妃マントノン夫人の求めで、その主宰するサン・シール女学院の生徒用に、『旧約聖書』に取材した合唱付き3幕悲劇『エステル』を書き、御前上演は好評を博した。91年同じく『アタリー』を御前上演。94年『聖歌』を作詞。94~99年の間に『ポール・ロアイヤル史要』(没後刊1742)を執筆。98年ごろ王の寵が彼から離れ、99年4月21日、パリで肝臓病のため死亡。遺言によってポール・ロアイヤルに埋葬されたが、1711年、パリのサンテティエンヌ教会に改葬された。
[岩瀬 孝]
『伊吹武彦・佐藤朔編訳『ラシーヌ戯曲全集』全2巻(1965・人文書院)』▽『鈴木力衛編訳『ラシーヌ』(『世界古典文学大系 第48巻』1965・筑摩書房)』▽『渡辺守章訳編『ブリタニキュス他3篇』(『ラシーヌ戯曲全集 第2巻』1979・白水社)』▽『ジロドウ著、岩瀬孝訳『ラシーヌ論』(鈴木力衛・内村直也訳編『ジロドウ研究』所収・1957・白水社)』▽『戸張智雄著『ラシーヌとギリシャ悲劇』(1967・東京大学出版会)』▽『スタロバンスキー著、大浜甫訳『活きた眼』(『ラシーヌと視線の美学』所収・1971・理想社)』▽『ゴルドマン著、山形頼洋・名田丈夫訳『隠れたる神 第4部』(『ラシーヌ』所収・1973・社会思想社)』▽『ニデール著、今野一雄訳『ラシーヌと古典悲劇』(白水社・文庫クセジュ)』
17世紀フランス古典主義を代表する詩人,劇作家。北フランス,ラ・フェルテ・ミロンの収税官の家に生まれ,2歳のときに母を,4歳のときに父を失う。母方の祖母マリー・デムーランに引き取られ,その家系がジャンセニスムの修道院ポール・ロアイヤル(ポール・ロアイヤル運動)と深い関係があったため,少年期にはこの修道院の学寮で教育を受けた。〈救霊預定説〉に基づく過激な信仰の持主たるポール・ロアイヤルの〈隠士(ソリテール)〉とその信仰は,しばしば弾圧の対象となったが,その教育は同時代のイエズス会学寮の教育と異なり,フランス語を重視し,古典教育もラテン語に限らず,ギリシア語・ギリシア文学を重んじた。孤児であったこと,ポール・ロアイヤルの〈悲劇的世界観〉ならびにその独自の教育は,ラシーヌ幼少年期の重要な伝記的要素である。
祖母マリー・デムーランの甥,ニコラ・ビタールにより,宮廷や若い文人(ラ・フォンテーヌら)に紹介されたラシーヌは,1660年,国王ルイ14世の成婚を祝う賛歌(オード)《セーヌ川の水精(ナンフ)》によって文壇にデビュー,当時の大御所ジャン・シャプランに認められる。上演されぬまま失われた《アマジー》《オビッド》の2編の戯曲の挫折の後,1661-63年の2年間,伯父アントアーヌ・スコナンを頼って南フランスのユゼスに滞在,在家聖職禄を得ようとしたが果たさず,パリに戻る(この間,貴重な書簡を残す)。63年,二つの賛歌《国王の御平癒について》と《詩神(ミューズ)たちのための名声》を書き,ボアロー,モリエールと知り合い,64年,モリエール一座による悲劇《ラ・テバイッド(テーバイ物語)》で劇壇にデビューする。一時代前のJ.deロトルー風残酷悲劇は成功せず,翌年の英雄主義的恋愛悲劇《アレクサンドル大王》で初の成功を収めるが,2週間後それをライバル劇団のブルゴーニュ座に上演させるに至って,モリエールと決別,彼はモリエール一座の写実的な演技よりブルゴーニュ座の大時代な演技を選んだといえる。さらに恋人となった女優デュ・パルクをモリエール一座から引き抜き,また,かつてポール・ロアイヤルの恩師だったピエール・ニコルの演劇批判論に反駁して,《〈想像の異端〉および2編の〈妄想の人〉の著者に与える書簡》を書き,ポール・ロアイヤルと絶縁する。これら忘恩のふるまいから,危険な野心家ラシーヌの評判が生まれる。
67年,ブルゴーニュ座が,新参加のデュ・パルクを主人公に上演した《アンドロマック》の驚異的成功により,一躍,第一線の悲劇詩人と認められる。この戯曲をささげた王弟妃アンリエット・ダングルテールをはじめ,シュブルーズ公,コルベールら,宮廷の実力者の庇護を背景に,10年間の輝かしい劇作の時代がくる。時の好みは,大コルネイユの英雄的悲劇から,弟トマ・コルネイユやフィリップ・キノーの恋愛至上主義悲劇に移っており,ラシーヌの成功も,この新しい感受性に適合していたからであった。しかしラシーヌの独自性は,恋愛を〈情念(パッシヨン)〉としてとらえ,個人の実存とそれが担う社会的役割とをともに巻き込んで破滅させる,危険な破壊的力としてとらえたことにある。そのような情念を,ラシーヌは,一分の隙(すき)もない緊密な劇構成と,簡潔で格調高く,しかも人間の内心の秘密や葛藤を多様に語りうる定型12音節(アレクサンドラン)詩句によって表現した。その主張は,初期には論争の調子を伴ってはいるが,各作品の序文に詳しく記されている。
裁判をめぐる常軌を逸した情念を描く喜劇《裁判狂い》(1668)の後,大コルネイユとその支持者たちの猛烈な妨害に遭ったローマもの政治悲劇《ブリタニキュス》を経て,70年,悲劇《ベレニス》により,大コルネイユとの事実上の競作に圧倒的な勝利を収める。新たな恋人である女優シャンメレー嬢(1642-89。彼女は以後《フェードル》まで,ラシーヌ悲劇の女主人公を演じる)のために書いたこの悲恋物語について,悲劇の楽しみである〈壮麗な悲しみ〉には,血が流れることは必要ではないと主張したラシーヌは,次作の後宮悲劇《バジャゼ》(1672)では,最もなまなましく残酷で血腥(ちなまぐさ)い悲劇を書く。73年,コルベールの推挙で,35歳の若さでアカデミー・フランセーズ会員となり,その直後に初演された《ミトリダート》の成功とあわせて,当代第一の悲劇詩人として公認されたことになる。74年,ベルサイユ宮祝典で初演された《イフィジェニー》は,エウリピデスに拠るギリシアもの異教神話悲劇であり,当時,大流行をみせ始めたリュリ作曲・キノー台本による音楽悲劇(オペラ)への反駁でもあった。77年,《フェードル》初演に際しての妨害は結局不成功に終わり,すでにポール・ロアイヤルと和解していたラシーヌは,この年,ビタールの遠縁に当たる富裕な一族の娘カトリーヌ・ド・ロマネと結婚。また,ボアローとともに国王の修史官に任命され,劇壇を引退する。
《ソーの牧歌》(1685)などのほかは創作から遠ざかり,宮廷人の務めを果たす。89年,マントノン夫人のサン・シール学寮のために聖書に基づく合唱入り悲劇《エステル》を書き,91年には《アタリー》がラシーヌ悲劇の最後を飾る。晩年のラシーヌは,ジャンセニスムを弾圧し続けたルイ14世の側近でありながら,ひそかに《ポール・ロアイヤル史概要》を書き,また4編の《宗教賛歌》を残した。その死因は肝臓腫瘍であった。
ラシーヌ悲劇の情念は,多くの場合恋愛の情念だが,政治的野望も情念の劇としてとらえられる。恋愛の情念が発動するのも,政治権力の場においてであり,人間の深層の欲望をつき動かす劇と,社会の大きな力関係の劇とがそこで絡む。それはまた古代的宿命と近代的自由性との絡み合う複雑な悲劇性に貫かれた舞台であり,人間の条件の劇の至高の表現の一つとして,各時代が新しく読み直してきた古典の典型である。
→古典主義[文学]
執筆者:渡辺 守章
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1639~99
フランスの劇作家。情念の抗しがたい力にとらえられた人間の悲劇を描き,その詩句は古典主義の精髄をなすといわれる。代表作『ブリュタニキス』『ベレニス』『フェードル』など。
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…フランスの劇作家ラシーヌの五幕韻文悲劇。1667年11月,ブルゴーニュ座初演。…
…喜劇はアリストテレスの《詩学》に欠損していることもあって,悲劇よりは自由であったが,規則議論が劇文学の質を急激に高めていく動きの中で,とくにモリエールによって悲劇に拮抗し得る優れた文学ジャンルとなる。こうして1664年にラシーヌが《ラ・テバイッド》で劇壇に登場するときには,すでに悲劇を代表とする劇文学の分野では,のちに古典主義美学と称せられるものの公準と規則はほぼ確立していたが,ラシーヌはそれを自由な発想に対する桎梏(しつこく)とは受けとらず,それを自由に駆使したばかりか,ときにはそれを逆手にとって,ラシーヌ固有の見事な悲劇的世界を構築した。1674年のN.ボアローの《詩法》は,そのような半世紀にわたる詩人,作家たちの実践を整理して,一つの美的公準の言説を作ったものであり,後代に対して古典主義美学の要約として果たした役割は大きい。…
…詩的高揚のみならず,きわめて論理的・散文的思考の表現にも適したこの詩形を,彼は完璧に使いこなした。同時代スペインのローペ・デ・ベガやカルデロン・デ・ラ・バルカ,ルイ14世時代,いわゆる〈古典主義〉の時代のP.コルネイユやJ.ラシーヌも,輝かしい詩劇を作った。この黄金時代のあと衰微した詩劇の復興を図ったのはロマン派詩人たちだった。…
…1行の詩句でも,例えばフランス詩でいちばん長いアレクサンドラン(12音節)では,息の切れ目(=意味の切れ目)が6音節の終り(句切り)にあり,古典詩では必ず守られねばならなかった。その6音節(半句)の中で多様なリズムを駆使して名声を得たのはラシーヌであり,またユゴーらロマン派はこの句切りにこだわらないことを主張した。 詩の歴史における変革はつねに詩法の変革を伴ったもので,ロマン派以降,西欧の詩では,また新体詩以後の日本の詩でも,詩型の拘束を逃れ,さまざまな韻律を試みたあと,自由詩へと動いていく。…
…フランスの劇作家J.ラシーヌの第10作,5幕の韻文悲劇。1677年1月,ブルゴーニュ座初演。…
…中世から現代に至るフランス演劇の大きな特徴は,(1)歴史的には,17世紀に起こった一連の変化・断絶を軸として,それ以前とそれ以後に大別され,17世紀以降の演劇の多くのものが,劇場における上演という形にせよ,劇文学の読書という形にせよ,今日まで一応は連続して共有されてきたのに対し,17世紀以前の演劇は,少数の例外を除いて,演劇史あるいは文学史の〈知識〉にとどまること,(2)構造的には,17世紀に舞台芸術諸ジャンルの枠組み(〈言葉の演劇〉,オペラ,バレエ等)が成立し,国庫補助を含むその制度化(王立音楽アカデミーは1669年,コメディ・フランセーズは1680年に開設された)が進むと,演劇活動のパリの劇場への集中化が行われ,演劇表現内部における〈言葉の演劇〉の優位とそれに伴う文学戯曲重視の伝統が確立したことである。特に最後の点は,コルネイユ,モリエール,ラシーヌに代表される劇文学が,一般に諸芸術の内部で規範と見なされるに至ったことと相まって,以後300年のフランス演劇とフランス文化に決定的な役割を果たした。
【中世――宗教劇と世俗劇】
中世フランスは,ヨーロッパの中でも,宗教劇・世俗劇ともに隆盛を見た地域だった。…
…フランスの劇作家J.ラシーヌの第5作。5幕の韻文悲劇。…
…サン・シランを師と仰ぎ,その弟子A.アルノーを理論的指導者とするポール・ロアイヤルはカトリック宗教改革運動の一翼を担うが,他方ジャンセニスムの本拠地とみなされ,教権,俗権の双方から数々の弾圧を受け,1709年修道院は閉鎖され,運動は終りをつげた。しかしその間,ポール・ロアイヤルはその運動の担い手と関係者の中から,アルノー,パスカル,P.ニコル,ラシーヌといった著名な思想家,文学者を輩出し,フランス古典期の文化に大きく貢献した。また付属学校は教育史上名高く,そこでの教育経験から生まれたいわゆるポール・ロアイヤルの《論理学》と《文法》は近年注目を集めている。…
※「ラシーヌ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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