ラウレンティス(英語表記)Dino De Laurentiis

改訂新版 世界大百科事典 「ラウレンティス」の意味・わかりやすい解説

ラウレンティス
Dino De Laurentiis
生没年:1919-2010

イタリア出身の映画製作者。ナポリ生れ。イタリア人名としては正しくはデ・ラウレンティス。〈ネオレアリズモ〉を支えたプロデューサーの一人で,女優のシルバーナ・マンガーノSilvana Mangano(1930-89)を育て,〈イタリア映画のキング〉として国際的に知られ,のちにはアメリカ映画界に進出して数々の大作を生み出している。ローマの〈チェントロ・スペリメンターレ・ディ・チネマトグラフィア(映画実験センター)〉を出て,第2次世界大戦で兵役に服したのち,〈ネオレアリズモ〉にエロティシズムを加味したジュゼッペ・デ・サンティスGiuseppe De Santis監督の《苦い米》(1948)を製作して国際的にヒットさせ,ヒロインを演じた〈肉体女優〉シルバーナ・マンガーノを売り出した(そして彼女とは1949年に結婚した)。1950年には,映画製作者のカルロ・ポンティCarlo Pontiとともにプロダクションを設立,ロベルト・ロッセリーニ監督《ヨーロッパ一九五一年》(1952),フェデリコ・フェリーニ監督《道》(1954)および《カビリアの夜》(1956),キング・ビダー(ビドア)監督の米伊合作映画《戦争と平和》(1956)などを製作する。57年,ポンティとのプロダクションを解散し,イタリア映画界の近代化を意図してローマの近くに最新最大を誇る撮影所〈ディノチッタDinocittà〉を建設,ジョン・ヒューストン監督《天地創造》(1966),ルキノ・ビスコンティ監督《異邦人》(1967),セルゲイ・ボンダルチュク監督の伊ソ合作映画《ワーテルロー》(1970)などを製作して〈イタリア映画のキング〉と呼ばれた。

 しかし,イタリア映画産業の危機が深刻化すると,〈ディノチッタ〉を閉鎖処分にして73年にアメリカに移り,そこでメジャー各社と対等の立場の独立製作者として活動を始める。〈映画はスターではなくストーリーである〉を持論とし,マイケル・ウイナーMichael Winner(1935- )監督,チャールズ・ブロンソン主演の《シンジケート》(1973),《狼よさらば》(1974),シドニー・ルメットSidney Lumet(1924-2011)監督,アル・パチーノ主演の《セルピコ》(1973),シドニー・ポラックSydney Pollack(1934-2008)監督,ロバート・レッドフォード主演の《コンドル》(1975),さらに1933年につくられたモンスター映画の古典リメークであるジョン・ギラーミン監督《キング・コング》(1976)を製作し,アメリカにおける独立製作者としての確固たる地位を築いた。《キング・コング》は興行的には失敗したが,すでに公開前に配給権を前売りして製作費の大部分を回収,その〈手腕〉が業界の伝説的な評判になった。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「ラウレンティス」の意味・わかりやすい解説

ラウレンティス

イタリアの映画プロデューサー。ナポリ生れ。〈ネオレアリズモ〉を支えたプロデューサーの一人で,〈イタリア映画のキング〉として国際的に知られ,のちにはアメリカ映画界に進出して数々の大作を生み出した。ローマの映画実験センターに学び,第2次世界大戦で兵役に服したのち,《苦い米》(1948年,デ・サンティス監督)を製作して国際的にヒットさせ,50年には,カルロ・ポンティとともにプロダクションを設立,ロベルト・ロッセリーニ,フェデリコ・フェリーニなどの映画を製作した。イタリア映画産業の危機が深刻化すると,73年にアメリカに移り,そこでメジャー各社と対等の立場の独立製作者として活動を始める。〈映画はスターではなくストーリーである〉という信念で,シドニー・ルメット,シドニー・ポラックなどの監督作品をはじめ数々の娯楽大作を手がけた。最初の妻は,女優のシルバーナ・マンガーノ。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android