日本歴史地名大系 「一津屋村」の解説 一津屋村ひとつやむら 大阪府:摂津市一津屋村[現在地名]摂津市一津屋一―三丁目・一津屋・東一津屋(ひがしひとつや)・東別府(ひがしべふ)三丁目・南別府(みなみべふ)町・鳥飼和道(とりかいわどう)一―二丁目・新在家(しんざいけ)二丁目淀川右岸低地部にあり、一屋村とも書く。東はうげふせ縄手を境に鳥養(とりかい)郷鳥養西之(とりかいにしの)村。芥(あくた)川・玉(たま)川・淀川・神崎川・安威(あい)川の諸川に囲まれた大輪中地帯の南西部に位置する。当村と新在家・別府の三ヵ村はこの輪中で最も土地が低く、輪中内の排水が集中するため、うげふせ縄手で鳥養郷と限って囲堤を形成、水利のうえから「三(さん)か村(そん)」と総称された。淀川は当村南西部で神崎川を分岐して南に曲流、集落は淀川堤に沿って街村状に連なる。別府村・新在家村も含め、当地域は「続日本紀」延暦四年(七八五)正月一四日条に「遣使堀摂津国神下・梓江・鰺生野、通于三国川」とある、三国(みくに)川(神崎川)の淀川直結工事で掘削された鰺生野(あじふの)の一部にあたるといわれ、明治一一年(一八七八)まで北流して別府集落西方で安威川に合流していた神崎川旧河道は、この工事によったものとする説もある。また西成(にしなり)郡江口(えぐち)村(現東淀川区)付近を中心とした典薬寮領味原(あじふ)牧に含まれたともいう。「建内記」嘉吉二年(一四四二)条に、土一揆の蜂起を避け、東寺(とうじ)口(現京都市南区)の禁裏御厨子所雑分所の関所を「摂津国鳥養内一屋(いちのや)辺」に移したことがみえる。 一津屋村ひとつやむら 大阪府:松原市一津屋村[現在地名]松原市一津屋町別所(べつしよ)村の南にあり、東は東除(ひがしよけ)川を挟んで小川(おがわ)村と島泉(しまいずみ)村(現羽曳野市)、南は長尾街道を境界として西川(にしがわ)村・丹下(たんげ)村(現同上)。集落東方の丘の上に長径三六メートルの前方後円墳一津屋古墳があり、環濠の一部が残る。一五―一六世紀の合戦の時に砦として利用された。墳丘上に市杵島姫命を祀る厳島(いつくしま)神社がある。丹北郡に属し、慶長一七年(一六一二)水割符帳(田中篤家文書)に「一ツや」とみえ狭山(さやま)池(現南河内郡狭山町)の中樋(なかひ)筋から取水していた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by