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南北朝時代の武将。少輔(しょう)二郎、宮内(くない)少輔、法号道猷(どうゆう)。建武(けんむ)政権下に足利尊氏(あしかがたかうじ)が守護・国務を兼ねた武蔵(むさし)の代官。1336年(延元1・建武3)尊氏の西走に従い、九州にとどまって鎮西管領(ちんぜいかんれい)(九州探題)となる。子範光(のりみつ)以下を派して筑前(ちくぜん)、筑後(ちくご)、肥前などに南朝方と戦ったが、根深い自立性と複雑な対立関係のある九州国人(こくじん)層の統合は困難で、足利直冬(ただふゆ)を擁する少弐頼尚(しょうによりひさ)と対立、ついで53年(正平8・文和2)南党菊池武光(たけみつ)に敗れ、55年(正平10・文和4)長門(ながと)(山口県)に逃れ、翌年上洛(じょうらく)し隠退。深く禅宗に帰依(きえ)した。
[小川 信]
(河村昭一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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?~1369.2.18
南北朝期の武将。公深(こうしん)の子。宮内少輔。法名道猷(どうゆう)。1336年(建武3・延元元)足利尊氏に従い九州に下る。尊氏は東上の際,範氏を博多にとどめ幕府軍の統轄を命じたが,これにより初代九州探題となる。46年(貞和2・正平元)には子直氏も九州探題として下向。しかし,料所不足や権限未確定で九州経営は失敗し,56年(延文元・正平11)帰洛して隠退。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…足利泰氏の子公深阿闍梨が三河国吉良荘一色(現,愛知県幡豆郡一色(いしき)町)を所領とし一色氏をおこす。公深の子一色範氏は1336年(延元1∥建武3)足利尊氏の命により九州にとどまり,軍事指揮,行賞・訴訟の注進・実施などの権限を行使し,初代の鎮西管領(のち九州探題)となった。やがてその子直氏が代わって鎮西管領となり,範氏はこれを後見したが,九州諸豪族の抵抗が強く,父子は足利直冬党・南朝方と鼎立した末,南朝方菊池氏に敗れて56年(正平11∥延文1)から翌々年にかけて父子あいついで九州を退去して帰京した。…
…初めは鎮西管領,鎮西探題とも称される。1336年(延元1∥建武3),九州に敗走した足利尊氏が,筑前多々良浜合戦で勝機を得,大挙東上する際,一色範氏を九州にとどめて幕府軍を統轄させたのが始まり。その後この職にあったのは,南北朝期は一色直氏,足利直冬,斯波氏経,渋川義行,今川貞世と転変するが,両朝合一後は代々渋川氏であった。…
…古代~中世,西国とくに九州を平定するため臨時に任命された将軍。その役所を征西将軍府と呼ぶ。《続日本紀》養老4年(720)7月の条に征隼人持節大将軍に任命された大伴旅人のことを征西将軍と称したのが初見史料であるが,その後,941年(天慶4)藤原純友の乱を平定するため藤原忠文を征西大将軍に任じ,その下に副将軍,軍監などを配した。 以来久しく征西将軍府は設置されなかったが,後醍醐天皇は九州地方における南朝勢力の拡大を意図し,1338年(延元3∥暦応1)皇子懐良(かねよし)親王を征西将軍に任じ下向させた。…
…南北朝の内乱期には国人層は北朝方(幕府方)・南朝方(宮方)に分かれて争ったが,当国は九州の南朝勢力の拠点の一つになっていた。そのため幕府方は当国の宮方をしきりに攻め,38年(延元3∥暦応1)鎮西管領一色範氏は菊池氏討伐のため筑後に兵を進め,40年には佐竹義尚を派遣し,またみずからも当国を転戦した。49年(正平4∥貞和5)の足利直冬の九州下向によって,九州は幕府方,宮方,直冬方の3勢力に分かれて混乱したが,当国では荒木氏,三原氏らが直冬につくなど,直冬方が優勢であった。…
…その直後に京都を追われた足利尊氏が筑前に到着し,同年3月菊池氏の大軍を多々良浜の戦で破り,大宰府に入った。尊氏は一色範氏を鎮西管領として博多に残し東上した。範氏はたびたび帰京を幕府に願い出たが許されなかった。…
※「一色範氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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