義堂周信(読み)ギドウシュウシン

デジタル大辞泉 「義堂周信」の意味・読み・例文・類語

ぎどう‐しゅうしん〔ギダウシウシン〕【義堂周信】

[1325~1388]南北朝時代臨済宗の僧。土佐の人。号は空華くうげ道人。夢窓疎石むそうそせきに師事。足利義満に招かれて建仁寺南禅寺などに住した。初期五山文学代表者の一人。詩文集「空華集」、日記「空華日工にっく集」など。

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精選版 日本国語大辞典 「義堂周信」の意味・読み・例文・類語

ぎどう‐しゅうしんギダウシウシン【義堂周信】

  1. ( 室町時代臨済宗の僧 ) ⇒しゅうしん(周信)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「義堂周信」の意味・わかりやすい解説

義堂周信
ぎどうしゅうしん
(1325―1388)

南北朝時代の臨済(りんざい)宗夢窓(むそう)派の僧。号は空華道人(くうげどうにん)。土佐(高知県)長岡の人。14歳で無常を観じ、翌年叡山(えいざん)で受戒、17歳で禅に転じ夢窓疎石に師事する。夢窓の寂後は建仁寺の竜山徳見(りゅうざんとくけん)(1284―1358)に師事し、鎌倉瑞泉寺(ずいせんじ)、保寿寺に住し、報恩寺を開創した。1379年(天授5・康暦1)法兄の春屋妙葩(しゅんおくみょうは)の招きにより建仁寺に入り、1386年(元中3・至徳3)将軍足利義満(あしかがよしみつ)に請われて南禅寺に住した。彼の住院中に南禅寺は「五山之上」に昇位。詩文の才に優れ、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)とともに五山文学の双璧(そうへき)とされる。1388年4月4日寂。『語録』『空華集』『東山外集抄』『空華日工集(にっくしゅう)』などの著がある。

[石川力山 2017年6月20日]

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改訂新版 世界大百科事典 「義堂周信」の意味・わかりやすい解説

義堂周信 (ぎどうしゅうしん)
生没年:1325-88(正中2-元中5・嘉慶2)

南北朝時代の臨済宗夢窓派の禅僧。南禅寺44世。号は空華(くうげ)。土佐(高知県)の人。14歳で比叡山に登壇受戒,17歳のとき上京して夢窓疎石に参禅すること10年,ついにその法を継いだ。1351年(正平6・観応2)夢窓が示寂すると,天竜寺から建仁寺に移り,竜山徳見に従った。のち鎌倉公方足利基氏により鎌倉円覚寺に招かれ,ついで常陸(茨城県)の勝楽寺,鎌倉善福寺,瑞泉寺に歴住し,1371年(建徳2・応安4)法恩寺の開山になるなど,20余年鎌倉にあって,夢窓派の関東における振興に努め,足利基氏・氏満をはじめ,上杉朝房・能憲など関東武将の厚い帰依を受けた。80年(天授6・康暦2)将軍義満の招請により上洛,建仁寺に住したが,86年(元中3・至徳3)には南禅寺住持となり,同寺山内に慈氏院を創建して退隠した。義堂は将軍はじめ公武の帰依を集め,夢窓派勢力の拡大に貢献した。義満が相国寺(しようこくじ)を建立してこれを五山に列位しようとして義堂に諮ったとき,義堂は南禅寺を五山の上とするよう意見を述べ,これにより五山制度が確定した。義堂は円満な人格の持主といわれ,内典外典に通じ,とくに詩文の才に長じていたので,絶海中津(ぜつかいちゆうしん)とともに,五山文芸の双璧とうたわれ,その詩は明人も賞嘆したという。語録4巻のほか,詩文集《空華集》,先人の名詩を集めた《貞和祖苑聯芳集》,日記の《空華日工(くうげにつく)集》などがある。
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百科事典マイペディア 「義堂周信」の意味・わかりやすい解説

義堂周信【ぎどうしゅうしん】

南北朝時代の五山の禅僧。土佐の人。夢窓疎石の弟子となり臨済宗に帰依した。鎌倉円覚寺に入り,のち京都建仁寺南禅寺等に住す。詩文の才に長じ,詩文集に《空華集》,日録に《空華日工集(くうげにっくしゅう)》があり,絶海中津とともに五山文学の代表者。
→関連項目臥雲日件録愚渓右慧絶海中津

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朝日日本歴史人物事典 「義堂周信」の解説

義堂周信

没年:嘉慶2/元中5.4.4(1388.5.10)
生年:正中2.閏1.16(1325.3.1)
南北朝期の臨済宗の僧,五山文学僧。別に空華とも号した。土佐(高知県)高岡郡の人。初め比叡山に登り受戒し,暦応4/興国2(1341)年衣を更え禅宗に帰依して,夢窓疎石に師事した。疎石の没後,金剛幢下の家風を伝える竜山徳見に参じた。この参学はのちの詩風および文学の志向に影響を与え,やがて『重編貞和類聚祖苑聯芳集』を編するに至る。延文4/正平14(1359)年法兄春屋妙葩の命を受け,関東公方足利基氏の招請に応ずる形で,夢窓派拡張の任を担って下向した。以後,約20年間鎌倉で活動し,基氏,氏満父子の信任を得,上杉朝房,能憲の帰依を受ける一方,瑞泉寺住持などを経て鎌倉叢林における指導的立場を確立した。この間,大覚,仏光両門徒の抗争が円覚寺の大火として噴出するなどの事件に遭遇し,その対応に苦悩する姿が義堂の日記『空華日用工夫略集』から読みとれる。康暦2/天授6(1380)年将軍足利義満の召還により帰京し,等持院,建仁寺,南禅寺各寺を歴住する。義満の信頼は厚く,有力なブレーンとして叢林の機構整備および禅宗文化の受容などに強い影響力を有した。著述には『空華集』『義堂和尚語録』などがあり,『三体詩』の講義は主要な説としてのちの抄物に引用される。従来は絶海中津と並んで五山文学の双璧とされてきたが,常識的枠組みを崩さない平板さは絶海の豊潤さとは対比的であるように思われる。<参考文献>入矢義高『五山文学集』

(飯塚大展)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「義堂周信」の意味・わかりやすい解説

義堂周信
ぎどうしゅうしん

[生]正中2(1325).土佐
[没]元中5=嘉慶2(1388).5.4. 京都
南北朝時代の禅僧,詩人。号は空華道人。 17歳のとき上京して夢窓疎石に参じ,その死後建仁寺の龍山徳見に従った。正平 14=延文4 (1359) 年関東に下向して瑞泉寺に住したが,のち建仁寺の住持に任じられて帰洛し,以後等持寺,南禅寺に移った。足利義満の信任を受け,豪放で協調的性格は夢窓派の勢力を伸ばすのに貢献した。学者としてすぐれ,内外の典籍の講義を行なっている。また文筆の才に長じ,その文は絶海中津 (ぜっかいちゅうしん) の詩とともに双璧と称された。この2人の禅僧の登場によって,五山文学は全盛時代を迎えたが,宋元の詩文の影響を受けながら,日本独自の詩境を開拓した功績は大きい。日記『空華日工集』 (42) や詩文集『空華集』 (88以前) をはじめ著述も多い。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「義堂周信」の解説

義堂周信
ぎどうしゅうしん

1325.閏1.16~88.4.4

南北朝期の禅僧。別号空華(くうげ)道人。土佐国生れ。俗姓は平氏。はじめ比叡山で台密を学ぶが,17歳で夢窓疎石(むそうそせき)に参禅,のち法を継いだ。1359年(延文4・正平14)足利基氏(もとうじ)の招きで鎌倉円覚寺に住し,71年(応安4・建徳2)上杉氏に請われて報恩寺(現,廃寺)の開山となる。80年(康暦2・天授6)足利義満の命で帰京。建仁寺・等持院に住し,86年(至徳3・元中3)南禅寺住持。義堂の意見により南禅寺は五山の上におかれた。絶海中津(ぜっかいちゅうしん)と五山文学の双璧と称された。「貞和類聚祖苑聯芳集」「義堂和尚語録」や,漢詩文集「空華(くうげ)集」,日記「空華日用工夫略集」などがある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「義堂周信」の解説

義堂周信 ぎどう-しゅうしん

1325-1388 南北朝時代の僧。
正中(しょうちゅう)2年閏(うるう)1月16日生まれ。土佐(高知県)の人。夢窓疎石(むそう-そせき)の法をつぎ,その死後竜山徳見に文学をまなぶ。鎌倉におもむき臨済宗(りんざいしゅう)夢窓派の振興につとめ,康暦(こうりゃく)2=天授6年足利義満の命で帰京,建仁(けんにん)寺をへて南禅寺にはいる。以後同寺の寺格は五山の上となる。絶海中津とともに五山文学の双璧(そうへき)と称された。嘉慶(かきょう)2=元中5年4月4日死去。64歳。別号に空華道人(くうげどうにん)。著作に「空華集」「空華日用工夫略集」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「義堂周信」の解説

義堂周信
ぎどうしゅうしん

1325〜88
南北朝時代の臨済宗の僧
号は空華道人 (くうげどうじん) 。土佐の人。夢窓疎石に師事し,五山文学の代表者として絶海中津と並び称された。足利基氏・義満らの信任をうけ,建仁寺住持,南禅寺住持となる。著書に詩文集『空華集』,日記『空華日工集』などがある。

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367日誕生日大事典 「義堂周信」の解説

義堂周信 (ぎどうしゅうしん)

生年月日:1325年1月16日
南北朝時代の臨済宗の僧
1388年没

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世界大百科事典(旧版)内の義堂周信の言及

【漢詩文】より

…虎関師錬は一山一寧(いつさんいちねい)より学んだので,やや古風な作風を有するが,雪村は在元22年の長きにわたり,中国人の文脈句法を体得した人であり,中巌円月は在元の期間は雪村友梅ほど長くないが,その文脈句法の体得は雪村以上で,とくに四六文の学習に力を注いだ人である。 南北朝に入ってからは,義堂周信(ぎどうしゆうしん),絶海中津(ぜつかいちゆうしん),古剣妙快(こけんみようかい),中恕如心(ちゆうじよじよしん)などが出て,このうち義堂周信は入元しなかったがその作品の骨格はまったく中国人と同等なものを作りえて,中国人からさえ,その作品は中国人のものと誤られたほどであった。絶海中津は明の時代に入ってから渡海し,元代の人が偈頌(げじゆ)といって仏教臭のある詩体を好んで作ったのに対して,まったく士大夫風の俗体の詩文をよくし,また中巌円月についで,四六文の作成にいそしんだ。…

【空華日工集】より

…五山の禅僧義堂周信(号は空華)の日記。広本48巻はすでに失われ,現存するものは略本4巻の《空華日用工夫略集》である。…

【土佐国】より

…他の国人領主層の外護した禅寺には大平寺(一条氏),細勝寺(細川氏),長林寺(津野氏),妙蓮寺(大平氏),雪蹊寺(長宗我部氏),浄貞寺(安芸氏),予岳寺(山田氏)などがある。文芸では五山文学の双璧とされる義堂周信,絶海中津,これを継いだ旭岑瑞杲(別号待雨)などがある。ただ南学の祖として喧伝される南村梅軒は,大高坂芝山の捏造(ねつぞう)した架空の人物である。…

【東津野[村]】より

…中世には,津野荘一帯に勢力を有した津野氏領の最奥の地で,当村から檮原町にかけては津野山郷と呼ばれた。五山文学の双璧と称される義堂周信絶海中津はともに津野氏の一族で,船戸の出身と伝える。津野山郷は紙や茶の生産が盛んで,江戸時代には土佐藩が商品生産物の統制を強化,藩指定問屋の不当に抗して1755年(宝暦5)津野山騒動が起こった。…

※「義堂周信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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