一関城跡(読み)いちのせきじようあと

日本歴史地名大系 「一関城跡」の解説

一関城跡
いちのせきじようあと

[現在地名]一関市釣山

磐井いわい川東岸にある小丘陵つり山にある。釣山は篠見しのみ山・御館おたて山ともよばれ、磐井川に面した北西は断崖、南はにい山の丘陵へ連なる。中世以来の城跡は高さ九〇メートル前後の、北側に突き出した丘端部を中心に南北四五〇メートル・東西四〇〇メートルに及ぶ。頂部の本丸跡は千畳敷せんじようじきといわれる東西一〇〇メートル・南北五〇メートルのほぼ長方形で、西隅に田村たむら神社が祀られている。本丸跡に続く丘陵基部には空濠の跡がみられ、本丸跡北方には階段状に台地が延び、ここが二の丸跡・三の丸跡とされる。西側の小丘は烽火台ともいわれる。高崎たかさき城・釣山つりやま城ともよばれた。築城の時期は不明。伝承では大同年中(八〇六―八一〇)坂上田村麻呂、天喜年中(一〇五三―五八)安倍貞任の弟磐井五郎家任の居城といわれ、康平年中(一〇五八―六五)源義家が篠見山に陣を布いたとも伝える。中世にははじめ千葉頼胤の六男一関六郎高胤が一関城に居住したといわれるが(「日高社千葉系図」日高神社文書)、未詳のところが多い。また小野寺氏由緒書(小野寺文書)では建武年間(一三三四―三八)小野寺禅司太郎道綱が出羽仙北せんぼく郡・陸奥磐井郡を与えられて一関城に居住、その末孫小野寺中宮亮も天文年中(一五三二―五五)城主であったと伝え、小野寺嫡系直系譜(宮城県龍源寺文書)では登米とめ寺池てらいけ(現宮城県登米郡登米町)城主小野寺道茂が天文六年以来、一関城に在城したとあるなど、系統は異なるものの小野寺氏の在城が伝えられる。天正一九年(一五九一)一関城主小野寺伊賀守道照は深谷ふかや(現同県桃生郡河南町)で自刃したともいわれる(岩手県史)。なお、釣山にある願成がんじよう寺開基は新山にいやま城主竹内興田盛輔と伝え(一関村安永風土記)、興田盛輔は東山大原ひがしやまおおはら(現東磐井郡大東町)の新山城から一関新山に移ったとされるがつまびらかでなく当城との関係も不明。

慶長九年(一六〇四)仙台藩主伊達政宗の叔父で伊達一門留守政景の在所替が許され、清水しず(現西磐井郡花泉町)から一関城に入った(貞山公治家記録)知行地は磐井郡内二千貫(二万石)とされ、同六年の留守政景知行目録写(留守文書)によれば三二ヵ所・総高一千八三六貫六二八文、うち一四ヵ所が現一関市内にあった。同一二年政景は当城で没し、南東機織はたおり山の大安だいあん寺に葬られた。その子宗利は元和元年(一六一五)所替により金ヶ崎かねがさき(現胆沢郡金ヶ崎町)へ去った(「伊達世臣家譜」など)。留守氏の居館は釣山北東麓に構えられたといわれるが未詳。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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