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建部清庵 たけべせいあん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

建部清庵
たけべせいあん

[生]正徳2(1712).一ノ関
[没]天明2(1782).3.8. 一ノ関
江戸時代中期の医師。享保 15 (1730) 年,江戸で小松寿哲に外科を学ぶ。かねてから紅毛外科に関心をもっていたので,それに対する疑問と意見を書きとめ,明和7 (70) 年に衣関甫軒に託したところ,甫軒はそれを杉田玄白に渡し,玄白と清庵との間で書簡をもって問答が行われた。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

建部清庵 たてべ-せいあん

1712-1782 江戸時代中期の医師。
正徳(しょうとく)2年生まれ。陸奥(むつ)仙台藩藩医松井寿哲に師事,江戸でオランダ外科をまなんで陸奥一関(いちのせき)藩(岩手県)藩医となる。杉田玄白と蘭方について文通,この往復書簡は「和蘭(オランダ)医事問答」と題して寛政7年に刊行された。天明2年3月8日死去。71歳。名は由正,由朴。字(あざな)は元策。別号に寧静館。著作に「民間備荒録」。

出典|講談社
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朝日日本歴史人物事典の解説

建部清庵

没年:天明2.3.8(1782.4.20)
生年:正徳2(1712)
江戸中期の医者。陸奥国仙台支藩の一関藩(一関市)の藩医の子として生まれる。名は由正のち由朴,字は元策,号は寧静館,代々清庵を称した。仙台藩医松井寿哲に医を学び,江戸に出て修業したのち帰藩して藩医となった。明和7(1770)年蘭方医学に対する疑問を記した質問状を門人の衣関伯竜に託し,江戸の諸医を訪問させた。安永2(1773)年ついに杉田玄白とめぐり合うこととなり,清庵の質問内容が玄白の模索し達し得た境地と似ていることから,玄白は早速返書を書いて両者の文通が始まった。ふたりの往復書簡は玄白塾の門弟らによって編集され,「蘭学問答」「瘍医問答」と呼ばれて新入塾生の心得とされ,清庵没後の寛政7(1795)年に『和蘭医事問答』として刊行された。刊行には3男亮策(由水)と5男勤(由甫)も協力している。亮策は玄白の門下であり,勤は清庵没後に玄白の養子となって杉田伯元を名乗っており,清庵と玄白の親交の深さがうかがわれる。宝暦5(1755)年の東北地方における大飢饉時には,その惨状に接して『民間備荒録』を著し,藩内に頒布,同書は明和8(1771)年江戸の書肆須原屋市兵衛によって上梓された。一関で没し,大慈山祥雲寺に葬られた。<著作>『清庵漫筆』『備荒草木図』『癘風秘録』<参考文献>「建部氏系譜」(『医史料』6号),宗田一『図説・日本医療文化史』

(宗田一)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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