丁野郷(読み)よおのごう

日本歴史地名大系 「丁野郷」の解説

丁野郷
よおのごう

田河たがわ庄内の一郷。丁野の周辺に広がっていた郷。「経俊卿記」建長八年(一二五六)八月一四日条に「丁野保内青名・今村」「丁野保召次狼藉事」とみえ、鎌倉時代には保として存在したことが知られる。丁野郷として史料にみえるのは南北朝時代以降のことで、初めは久我家領および東大寺領の所領。久我家領としては、観応元年(一三五〇)八月一三日の久我長通譲状写(久我家文書)に「遠国家領」として「近江国田根庄付丁野郷」とみえるほか、応安五年(一三七二)八月には後光厳上皇が久我具通に「近江国田根庄付丁野郷」を宛行っている(同月二九日付「後光厳上皇院宣案」同文書)。また寄進主は不明だが、東大寺領としては延文三年(一三五八)三月二五日の東大寺五師三綱等事書案(東大寺文書)に「近江国丁野郷者、去建武三年御寄進八幡堂之間」とある。同寺の領有は室町時代初期まで続いたためか、応永七年(一四〇〇)四月三日の室町幕府御教書(東大寺文書)によれば、延暦寺領富永とみなが(現伊香郡高月町)の地下人らが「丁野御用水」に対して違乱を行ったため、「上臈御局雑掌」の訴えを受けて、幕府は守護六角満高に同地下人らの同用水への押妨停止を命じている。


丁野郷
よおのごう

和名抄」高山寺本は「与於乃」、東急本は「与保乃」と訓ずる。丁の訓はヨホロだからヨホノが本来で、ヨオノはその転訛であろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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