朝日日本歴史人物事典 「多賀高忠」の解説
多賀高忠
生年:応永32(1425)
室町時代の武将,近江(滋賀県)京極氏の重臣,室町幕府侍所所司代,武家故実家。通称は新左衛門,豊後守。近江国犬上郡多賀氏多賀高長の子として生まれる。京極持清の弟で高長の養子とする説もあるが信じがたい。寛正3(1462)年10月5日幕府侍所所司代となるが,文正1(1466)年12月末,所司京極持清の京都出奔と同時に解任された。翌年に始まる応仁の乱では東軍(細川勝元方)持清麾下として近江・京都を転戦。文明1(1469)年8月観音寺城を攻落,六角高頼を追い将軍足利義政から感状を受けている。持清没後の京極氏の内訌では,京極政高(政経)にくみして京極政光・高清,坂田郡多賀氏多賀出雲守らと抗争。同7年10月政高と共に近江を追われ京都に雌伏したが,17年4月15日所司代に再任,その死に至るまで京都の治安維持に従事した。小笠原持長に弓馬故実を学び,騎射に精妙を極めた。また和歌,連歌に長じ,名庭として名高かった京都の私邸では,しばしば歌会が催されていた。正徹の『草根集』に和歌10首が載せられている。著作に『多賀高忠聞書』(『美人草』),『就弓馬儀大概聞書』『弓矢相伝之事』ほか多数がある。ただし,大略は小笠原氏からの聞書である。<参考文献>二木謙一「故実家多賀高忠」(『中世武家儀礼の研究』)
(二木謙一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報