七条村(読み)しちじようむら

日本歴史地名大系 「七条村」の解説

七条村
しちじようむら

[現在地名]金城町七条

現金城町の中央西部に位置し、浜田川が西流する。東は上来原かみくるばら村・下来原村、北は小笹おざさ村、西は伊木いぎ村。天正二年(一五七四)八月二二日の吉川元春知行充行状(吉川家文書)によれば、石州小石見こいわみのうち「七条四町五段」などの合計一二町が山河も含め二宮俊実に宛行われている。同一三年二月二一日には七条名として俊実の子長実に安堵された(「吉川元春知行充行状」同文書)。しかし、天正一一年一一月一二日の小石見検地帳写(岡本家文書)には七条の名はみえない。慶長五年(一六〇〇)幕府領(石見銀山領)、元和五年(一六一九)浜田藩領となる。

七条村
しちじようむら

[現在地名]上板町七条

泉谷いずみだに村の南にあり、北東は神宅かんやけ村、東は西分にしぶん村、南は名西みようざい瀬部せべ村・高瀬たかせ村。中央を東に宮川内谷みやごうちだに川が流れ、北部を北東から南西撫養むや街道が通る。村名の由来は西の五条ごじよう(現吉野町)南東の名西郡上六条かみろくじよう村・下六条村とともに条里制の名残であるといわれるが、未詳。慶長二年(一五九七)の分限帳に七条とみえ、三八石余が樋口内蔵助、六二〇石が長谷川兵庫助、一〇〇石が尾関左太郎、五〇石が片山次左衛門、一三〇石が河口兵助、五〇石が不破又右衛門の各々知行分。このうち片山次左衛門分五〇石・百姓二人は慶長三年五月二六日に木全七兵衛に加増された。

七条村
しちじようむら

[現在地名]長浜市七条町

今川いまがわ村の北東にあり、南は八条はちじよう村。「木間攫」によれば、村名は古代の条里制に基づくという。また枝郷に下七条村があるという。中世は福能部ふくのべ庄のうち。応永二六年(一四一九)大原おおはら観音寺(現坂田郡山東町)の造作日記帳(坂田郡志)に「百文 七条ノ神主」とある。天文七年(一五三八)の六角定頼陣立注文(朽木文書)に「七条 進藤」とある。天正三年(一五七五)羽柴秀吉は当地などの年貢半租・田地開墾を命じている(三月三日「羽柴秀吉書状」清水文書)

七条村
しちじようむら

[現在地名]奈良市七条町

六条ろくじよう村の南に所在。平城京の右京七条にあたる。中世以来唐招提寺などの造瓦工居住地として有名。現京都市の東寺金堂大棟東方鬼瓦銘に「京ちやう(慶長)四年卯月十四日やまとの国西の京七条ふじわらのあそん□□ 源蔵」がみえる。

慶長郷帳の村高七二二・八五二石、幕府領(代官大久保長安)。元和元年(一六一五)郡山藩(水野勝成)領。のち同藩の二割半無地高増政策により村高九一九・一一三石となる。「大和志」に「七条属邑一」とある属邑は尻枝しりえだ(尻江田)村、のち稗田ひえだ村となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報