日本歴史地名大系 「万田村」の解説 万田村まんだむら 神奈川県:平塚市万田村[現在地名]平塚市万田・高村(たかむら)淘綾(ゆるぎ)郡に属し、南は泡多羅(あわたら)山(現湘南平)を境に東小磯(ひがしこいそ)村・西小磯村(現中郡大磯町)、東は高根(たかね)村、北は出縄(いでなわ)村に接する。東を浅間(せんげん)山中腹に源を発する谷戸沢(やとさわ)が流れる。伊勢原(いせばら)道・波多野(はだの)道が通る。小田原衆所領役帳には須藤惣左衛門「百貫文 中郡万田」とある。慶長元年(一五九六)旗本大河内領、寛永二年(一六二五)同氏の大名化により甘縄藩領となる。元禄一〇年(一六九七)幕府直轄領と旗本榊原領の二給、安永七年(一七七八)幕府直轄領と旗本榊原二氏・日向領の四給、文化八年(一八一一)旗本榊原二氏・日向・白須領の四給。 万田村まんだむら 熊本県:荒尾市万田村[現在地名]荒尾市万田・西原(にしばら)町一丁目・同三丁目・日の出(ひので)町・大正(たいしよう)町一―二丁目万田山(袴岳)西麓の低丘陵地帯に立地し、東は袴(はかま)岳を境に原万田(はらまんだ)村・宮内出目(くないでめ)村、北は原万田村、南は宮内出目村、西は大島(おおしま)村に接する。野原八幡宮祭事簿(野原八幡宮文書)によると、中世には同八幡宮大祭の大行事を勤めた四ヵ村の一つであり、嘉暦二年(一三二七)の項の「国方大行事宮内分満田龍得」をはじめとして御祭礼頭人・節頭・御供節頭を勤めた当村住人の名が数多くみえる。 万田村まんだむら 島根県:平田市万田村[現在地名]平田市万田町奥宇賀(おくうが)村の東、宇賀川の上流域に位置する。中世万田庄の遺称地。北部は山地で、耕地は川沿いに展開する。東は水谷本庄(みずたにほんじよう)村。正保国絵図に村名がみえ、近世には楯縫(たてねい)郡に属した。元禄十年出雲国郷帳によると高六二六石余、寛文四年(一六六四)には本田高六一三石余。「雲陽大数録」では高五〇〇石。寛政四年(一七九二)の万差出帳(平田市立旧本陣記念館蔵)によると本田残高五〇九石余(田三一町四反余・畑七町三反余)、石新田高一石余(田二反余)。 万田村まだむら 大分県:中津市万田村[現在地名]中津市万田(まんだ)豊前道(上往還)と山国(やまくに)道との交点にあり、東は湯屋(ゆや)村、西は高瀬(たかせ)村。「下毛郡誌」は「万田は即、間田にして、是等山国川支流の間田を意味するにて、万田、真田は共に美称と知るべし」とある。間田は名田以外の無主地で、庄官に給与した田地を意味したものであろうか。天正年間(一五七三―九二)頃と思われる一〇月二日の鎮昌等連署奉書(蠣瀬文書)に万田兵庫允の名がみえる。天正一一年九月二四日広津治部少輔抱の万田切寄へ、豊後の玖珠郡衆が押寄せ、城督広津式部少輔以下一人残らず討果され、秋月種実方に反撃した(「大友義統感状」野上文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by