三ヶ尻村(読み)みかじりむら

日本歴史地名大系 「三ヶ尻村」の解説

三ヶ尻村
みかじりむら

[現在地名]熊谷市三ヶ尻・御稜威みいずはら

幡羅はら郡深谷領に所属(風土記稿)。荒川左岸の櫛挽くしびき台地南東縁の櫛挽面と寄居よりい面にまたがり、北は拾六間じゆうろつけん村、南は大里郡大麻生おおあそう村。中世は三ヶ尻郷に含まれていた。「風土記稿」に「古ハ甕尻又尻トモカケリ、村名ノ起リ詳ナラス、或云当村ニ狭山トイヘル山アリ、其形瓶ヲ覆フニ似タルヨリ起リシ名ナリトイヘト、ウキタル説ニテウケカヒカタシ、(中略)又此村ハ当郡及大里・榛沢三郡ノ後ニ当レハ、今ノ名起レリナト土人ノ伝ヘアリ、是ハ今ノ文字ニ改メシヨリ附会セルコトナルヘク」とあり、二つの村名由来が載るが、「大日本地名辞書」は「村内なる狭山の形容を覆せて、尻を見るが如くなれば、此名の起り明白なり」と前者の説をとっている。山とは現在の観音かんのん山で、標高七七・四メートルの新生代第三紀の残丘、櫛挽台地と沖積扇状地の接する地点に突出している。

天正一八年(一五九〇)の三千石以上分限帳(「天正慶長諸大名御旗本分限帳」内閣文庫蔵)によると、三宅惣右衛門康貞は「武州見賀尻」で五千石を宛行われたが、慶長九年(一六〇四)に五千石を加増され三河挙母藩に移封となった(寛政重修諸家譜)


三ヶ尻村
みかじりむら

[現在地名]金ヶ崎町三ヶ尻

西根にしね村に南と西を囲まれ、北と東は北上川に限られる。奥州街道が通る。中世には尻と書き、文永九年(一二七二)六月二三日の関東下知状(中尊寺文書)小前沢こまえさわ(現前沢町)とともにみえ、中尊寺白山宮領とある。建武元年(一三三四)八月日の中尊寺大衆訴状案(同文書)によると、「尻小前沢両村」は、源頼義・義家が安倍頼時・貞任父子討伐を白山宮に祈願して寄進したものという。同五年九月八日、「瓶尻村」にある白山修正田八段が「とをいち女」に譲られた(「法眼有禅譲状」同文書)


三ヶ尻村
みかじりむら

[現在地名]東金市三ヶ尻

東金町(辺田方村)北方に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二一六石。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では滝沢組に属し、旗本森川領一〇〇石。元禄一三年(一七〇〇)から旗本土屋領(山口家文書)元禄郷帳では高一一一石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数一三、土屋領・幕府領

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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