三ヶ島村(読み)みかじまむら

日本歴史地名大系 「三ヶ島村」の解説

三ヶ島村
みかじまむら

[現在地名]所沢市三ヶ島・堀之内ほりのうち糀谷こうじやはやし若狭わかさ狭山さやまおか東狭山ひがしさやまおか西狭山にしさやまおかはら

北野きたの村の西、狭山丘陵の北麓に位置する。村名は、三区に分れていた当地の集落の形が三個の島のようだったことから起こったという。北部は正平七年(一三五二)閏二月二〇日新田義興と足利尊氏が戦った金井かない原合戦場と伝えられ、小名下田しもだに流れる小流に沿って植えられた梅の木は新田勢が梅花の枝を折って箙に挿したという箙の梅の伝説を残す。また小名北の馬場きたのばんば勝楽寺の根古屋しようらくじのねごや城の馬場跡であると伝える(風土記稿)。永禄九年(一五六六)一一月一〇日の北条氏照制札(中氷川神社文書)に「三ケ嶋之内於中宮」とあり、「中宮」はのちの長宮ながみや明神(現中氷川神社)をさす。中氷川神社蔵の天正五年(一五七七)九月吉日奉納の懸仏銘には「武州入東郡宮寺郷三ケ島村」とみえ、宮寺みやでら郷のうちに含まれていた。同七年八月二七日京都聖護しようご院門跡から篠井ささい(現狭山市)観音堂に対し、天文二一年(一五五二)の下知に任せ、「入東郡之内三日嶋郷衆分」の旦那職などが安堵され(「聖護院門跡御教書」篠井文書)、翌八年六月七日にはこの安堵を承認する北条氏照の判物(同文書)が出された。同一三年と推定される酉七月八日の北条氏照印判状(紅林文書)では、紅林八兵衛に「三ケ嶋」の棟別銭夏秋分とも七貫文余が宛行われ、同所から陣夫一疋の徴集が許されている。天正一八年四月には豊臣秀吉から三ヶ島など五郷に三ヵ条の禁制(中氷川神社文書)が下された。翌五月には前田利家からほぼ同文の禁制が出されている(「前田利家禁制写」武州文書)

天正一九年五月三日武蔵孫之丞(秀貞)に三ヶ島内一〇六石余、久松彦左衛門(忠次)に同所五二石余が宛行われた(記録御用所本古文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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