三上庄(読み)みかみのしよう

日本歴史地名大系 「三上庄」の解説

三上庄
みかみのしよう

荘域はかめの川流域の東西に長く延び、現和歌山市と海南市域にまたがる。その大部分は、平安時代に名草なくさ郡を四分割したうちの一つ三上院を継承しているが、平安時代後期に高野山大伝法だいでんぼう院領として立荘された山東さんどう(現和歌山市)、鎌倉時代に立荘されたと考えられる且来あつそ庄や、引続き国衙の支配下に置かれた岡田おかだ郷を除いた地と考えられる。

「三上院」については、久安元年(一一四五)一一月一日の秦宿禰守利私領売渡状案(間藤家文書)に「三上院者、散位秦宿禰守利相伝私領也」とみえる。久寿二年(一一五五)正月日付の僧湛慶山地譲状案(願成寺文書)には「湛慶之三上御庄令開発尅」とあるので、湛慶によって、三上庄として開発されたことがわかる。また「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)五月二九日条に「御随身左府生秦兼平、去比進使者、是八条院領紀伊国三上庄者兼平譜第相伝地也、而自関東所被定補之地頭豊島権守有経、於事対捍抑留乃貢、早可蒙恩裁之由訴申、仍任先例可沙汰済物之旨給御下文之間、彼使者者今日帰洛云々」とあり、八条院領三上庄が秦兼平の譜代相伝地とされ、地頭が年貢を対捍抑留している。


三上庄
みかみのしよう

野洲川東岸、三上山麓一帯にあった、古代の三上みかむ郷の地に成立したとみられる庄園。関連史料伝来などから三上社(御上神社)領であったと推定される。「吾妻鏡」文治二年(一一八六)六月一七日条には、「三上庄」が佐々木三郎秀綱によって押妨を受けているとの訴えが内大臣徳大寺実定から鎌倉幕府に出されたことがみえる。当時徳大寺家領で、おそらく領家職をもっていたのであろう。寛喜三年(一二三一)藤原光資知行の「三上三昧」に伊勢奉幣の費用が賦課されている(「民経記」同年一〇月九日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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