鎌倉時代の慶派の仏師。運慶の長男で、1213年(建暦3)に法印に叙せられ、父亡きあとの慶派を主宰して活躍した。彼の作は運慶の豪快さには欠けるが、洗練された温和な表現をとっており、手堅い表現が特色である。若年より父に従って奈良の興福寺および東大寺の復興・造像に携わったのをはじめ、東寺、法勝(ほっしょう)寺、醍醐(だいご)寺、高山寺、高野山(こうやさん)などで造像し、晩年蓮華(れんげ)王院(三十三間堂)千体千手観音(せんじゅかんのん)造立の主宰仏師となり、1254年(建長6)には中尊の千手観音坐像(ざぞう)を完成した。これは湛慶在銘の千体観音中の数体とともに現存している。また高知市雪蹊(せっけい)寺の毘沙門天(びしゃもんてん)三尊像(年代不詳。法印時代の晩年の作と思われる)も数少ない遺作の一つである。建長(けんちょう)8年、蓮華王院造仏が未完成のうちに84歳で没した。
[佐藤昭夫]
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鎌倉初期の慶派の仏師。運慶の長男で,父なきあとの七条仏所(仏所)を主宰して活躍した。彼の作は運慶の豪快さには欠けるが,洗練された温雅な表現をとり,いかにも手がたい作品である。若年のころから父に従って興福寺や東大寺の復興造像にたずさわったのをはじめ,教王護国寺(東寺)中門,同南大門,法勝寺塔,醍醐寺閻魔堂のほか,高山寺,高野山などで造像し,晩年には蓮華王院(三十三間堂)千体千手観音の再興造立の主宰仏師となり,1254年(建長6)中尊像を完成している。これは湛慶在銘の千体観音像中の数体とともに現存している。また高知市雪蹊寺の毘沙門天三尊像(法印時代の作なので,晩年のものと思われる)も数少ない遺作の一つ。東大寺講堂の千手観音像造仏の完了をまたずに没している。
執筆者:佐藤 昭夫
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1173~1256
鎌倉中期の仏師。運慶の長男。運慶の統率のもとで東大寺・興福寺の復興造像にたずさわり,1213年(建保元)には法勝寺九重塔の造仏で,運慶の推挙により法印に叙せられた。運慶の没後は,後継者として活躍し一門を統率。49年(建長元)に焼けた蓮華王院(三十三間堂)千体千手観音像の再興に際しては修理大仏師となり,54年に中尊千手観音座像を完成させた。56年(康元元)に東大寺講堂本尊千手観音像の造立中に没した。高知市雪蹊(せっけい)寺の毘沙門天三尊像(重文)は法印時代の作。高山寺の善妙神・白光神像・狛犬・神鹿(いずれも重文)も彼の作とみられる。運慶の様式を継承してはいるが,力強さよりは穏やかさを基調とし,親しみやすい作風。
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…康勝が一瞬の動態を写生的にとらえた空也上人像(六波羅蜜寺)を,定慶が宋代彫刻の過度の写実をとり入れた聖観音像(鞍馬寺)をつくったのはこの時期である。なかんずく運慶の長子湛慶は運慶の力動感あふれる存在性と快慶の絵画的あるいは説明的ともいえる写実とを調和させた様式を確立し,1251‐54年(建長3‐6)に蓮華王院本堂(三十三間堂)の復興造仏を成し遂げた。その本尊の千手観音像と二十八部衆像の一群はまさに一時期を画するものである。…
※「湛慶」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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