三春城下(読み)みはるじようか

日本歴史地名大系 「三春城下」の解説

三春城下
みはるじようか

三春町の中心部。阿武隈高地西部の丘陵大志多おおしだ山に築かれた三春城を中心とする平姓田村氏以来の城下町近世には三春町村とも記された。

かつぎ橋から糠沢ぬかざわ(現白沢村)本宮もとみや宿(現本宮町)を経て二本松に至る街道、小浜海道おばまかいどうを経て小浜村・宮守みやもり(現岩代町)へ至る街道、亀井かめいから上宇津志かみうつし(現船引町)あるいは古道ふるみち(現都路村)を経て相馬領に至る街道、清水しみずを経て小野新町おのにいまち(現小野町)に至る街道、化粧坂けはいざかを経て磐城領に至る街道、鶴蒔田つるまきだから郡山宿を経て会津領へ至る街道、雁木田の並松がんぎだのなんまつ坂から赤沼あかぬま(現郡山市)を経て須賀川宿へ出る街道(参勤道)などが通じる交通の要衝で、三春藩領国経済の中心地として栄えた。三春の地名の由来として、現秋田県雄勝おがち稲川いなかわ町の三春家には天文二年(一五三三)銘の獅子頭が伝存し、当地から移住したとの伝承をもち、この三春氏が居住したためとの説がある。また梅・桜・桃が同時に咲くためとも、「見張」が転訛したともいわれるが、いずれも確証はない。また坂上系図前書(三春町史)によれば、もと大枝多おおしだ村といったが、永正元年(一五〇四)田村義顕が居城を当地に移した際、春を三度重ねて祝ったため改名したと記される。しかし延元三年(一三三八)から同四年頃と推定される年不詳四月一二日の沙弥宗心書状(有造館本結城古文書写)に「御春輩」、同じく年未詳一一月二八日の法眼宣宗書状(同文書)に「三春事」などとあって、鎌倉時代以来三春ともよばれていたと思われる。

和名抄」の安積あさか丸子まるこ郷を当町域に比定し、「日本後紀」延暦一六年(七九七)正月一三日条にみえる「安積郡人外少初位上丸子部古佐美」を当地の人とする説があるが、根拠がない。「古今著聞集」巻二〇(馬允某陸奥国赤沼の鴛鴦を射て出家の事)によれば、「みちのくに田村の郷」は前刑部大輔仲能朝臣の領地であった。この仲能は秀郷流藤原氏で、秀郷から九代目の田村伊賀守仲教の子息刑部大輔仲能である(尊卑分脈)。元弘元年(一三三一)鎌倉幕府が編成した征西軍のなかに田村刑部大輔入道がみえる(「太平記」巻三)。同三年鎌倉幕府が滅亡し、その直後の六月五日建武新政府に地頭代超円を派遣した七草木ななくさぎ村地頭で藤原氏の田村三川前司入道宗猷女子がいる(同年六月五日「地頭代超円着到状」相馬文書)。同年七月一七日にはこの藤原氏女の知行を安堵する後醍醐天皇綸旨(同文書)が出されている。この綸旨には後筆とみられる端裏書があり、「相馬孫三郎重胤妻奥州三春前領主参河前司入道宗猷女子藤原氏女云々」と記され(仙道田村荘史)、これらの史料が相馬氏に伝わった理由がわかる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の三春城下の言及

【三春[町]】より

…ダム近くにある〈三春滝桜〉は国指定天然記念物。【佐藤 裕治】
[三春城下]
 陸奥国の城下町。《有造館結城文書》の〈沙弥宗心(北畠親房)書状〉に,〈御春(三春)〉の語があり,また春に梅,桃,桜の花が一度に咲くことから三春と呼ばれたと伝えられている。…

※「三春城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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