福島県東部,田村郡の町。人口1万8191(2010)。中通り地方のほぼ中央,阿武隈高地西麓に位置する。JR磐越東線,国道288号線が通じ,磐越自動車道のインターチェンジがある。浸食がすすんだ標高300~500mのなだらかな丘陵と谷が複雑に入り組む老年期の山地からなり,平地は少なく,緩斜面に段畑や棚田が開ける。中心の三春は近世に秋田氏の城下町として栄え,明治以降も郡役所が置かれるなど田村郡の中心地であった。古くから葉タバコ栽培や養蚕が盛んであったが,第2次大戦後は隣接する郡山市の発展が著しく,その経済圏に組み込まれ,住宅地化も進んでいる。特産の馬は三春駒の名で知られ,張子の三春人形などの郷土玩具を産する。大志多山上にある三春城跡は桜の名所で城山公園となっており,町内各所に古い城下町のたたずまいが残る。福聚寺は田村氏の墓所で画僧雪村の寄寓地であった。97年,三春ダム急成。ダム近くにある〈三春滝桜〉は国指定天然記念物。
執筆者:佐藤 裕治
陸奥国の城下町。《有造館結城文書》の〈沙弥宗心(北畠親房)書状〉に,〈御春(三春)〉の語があり,また春に梅,桃,桜の花が一度に咲くことから三春と呼ばれたと伝えられている。1504年(永正1)田村義彰が大志多山に本城を築き,城下を形成した。以後,伊達政宗,蒲生氏郷らが支配した。1627年(寛永4)から加藤明利,松下長綱が領した。45年(正保2)秋田俊季が5万5000石で入部し,以後明治維新まで11代220余年,秋田氏の城下町であった。村高は〈文禄高目録〉では1366石余。1746年(延享3)には,家中屋敷140軒余,家中給人140人余,無足人100人余,町屋敷390軒,店借167軒,門前108軒,人数2157人,寺27。町割りは須賀川街道沿いに大町,中町,八幡町,北西方の小浜街道沿いに荒町,北方の相馬街道沿いに北町,南方の岩城街道沿いに新町が置かれた。町役人は1678年(延宝6)以降,検断3,町年寄7(その嫡子とも),各町ごとに小肝煎1,長町人1が置かれた。戊辰戦争では,三春藩がいち早く官軍に恭順の意を表し無血開城したこともあって,城下は戦火を免れた。
執筆者:誉田 宏
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福島県中東部、田村郡の町。阿武隈(あぶくま)高地中央部の西縁に位置する。1889年(明治22)町制施行。1955年(昭和30)御木沢(おぎさわ)、沢石(さわいし)、中郷(なかさと)、要田(かなめた)、中妻(なかつま)の5村と合併。同年岩江村の一部を編入。JR磐越(ばんえつ)東線と磐越自動車道、国道288号が通じる。標高250~500メートルの丘陵地にあり、平坦(へいたん)地はほとんどない。南部を阿武隈川の支流大滝根川が西流。田村郡の行政、文化の中心地。1504年(永正1)田村氏が三春城を築き、江戸時代には三春藩の城下町であった。養蚕と葉タバコ栽培などが行われ、かつては、たばこ製造所もあった。その後、養蚕は衰退し、桑園から果樹園への転換が進められている。また日本化学工業の工場なども立地し、工業団地が造成されている。伝統工芸に三春張子や三春駒(ごま)の製造がある。樹齢1000年以上(推定)といわれる「三春滝ザクラ」は国指定天然記念物。中山家住宅は江戸時代中期の農家建築で国指定重要文化財。面積72.76平方キロメートル、人口1万7018(2020)。
[渡辺四郎]
『『三春町史』全11巻(1975~1986・三春町)』▽『川又恒一他編『三春町の歴史と文化財』(1978・三春町)』
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