20世紀日本人名事典 「三淵忠彦」の解説
三淵 忠彦
ミブチ タダヒコ
- 生年
- 明治13(1880)年3月3日
- 没年
- 昭和25(1950)年7月14日
- 出生地
- 岡山県
- 出身地
- 福島県会津若松市
- 学歴〔年〕
- 京都帝大法科大学〔明治38年〕卒
- 経歴
- 大学卒業後、父親と同じ司法官となり、東京地裁判事、大審院判事、東京控訴院部長などを歴任。信託法の権威で、大正14年に退官後は三井信託銀行の法律顧問を務める一方、東京商大、慶大などで信託法や民法を講義する。戦後の昭和22年、新しい最高裁判所が発足すると、片山首相はじめ法務総裁鈴木義男、参院議長松平恒雄らの推薦により内閣から初代長官に任命され、就任の際は“国民のための最高裁”とうたい上げた。もともと裁判官としては明快な審理と名文をもって鳴り、また長官在任中は“人民のための人民自身の裁判所”を説く一方、行政官に比べて劣っていた裁判官の待遇を画期的に改善した。晩年は病気がちで、8カ月の長期欠席が国会で問題になったこともある。だが定年までつとめ上げ、25年退官4カ月後に死去。死の直前、田中耕太郎の立会いでクリスチャンの洗礼を受けた。著書に「信託法通釈」「日常生活と民法」「日本民法新講」など。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報