日本歴史地名大系 「三隅村」の解説
三隅村
みすみむら
北は
「和名抄」に記される三隅郷の地に比定され、「延喜式」にみえる古代の陰陽連絡路の「三隅駅」も村内の地であった。中世には村域全体を荘域とする三隅庄が成立(日向記)、一部は伊勢神宮の料地である三隅御厨でもあった(「伊勢大神宮神領注文」神宮雑書)。戦国時代にも三隅庄の名でよばれ、「閥閲録」所収の毛利隆元や輝元の家臣に対する宛行状にも、多くその名をみ、慶長(一五九六―一六一五)と寛永(一六二四―四四)期の検地帳でも三隅庄として記される。
慶長一五年の検地帳によれば、総石高六千六四石余、うち田が三五二町余で五千八二石余、畠が一一五町余で五九三石余、百姓屋敷五七一、市屋敷三〇、浦屋敷一九一。別に塩浜方一三石余が記される。「地下上申」では総石高七千七九石余となり、うち四千四四二石余が蔵入地、二千三八七石余が給領地で、岡部・黒沢・繁沢・草刈・梨羽・児玉・村上・益田など一〇家の入相知行とあり、村内を上中下に三分し、上村を給領地、中・下両村を蔵入地として支配した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報