三隅郷
みすみごう
三隅川中流域を中心とする一帯に比定され、右岸に位置する高城山には南朝方の三隅氏が拠った三隅高城が築かれていた。「和名抄」に那賀郡三隅郷がある。建武三年(一三三六)九月日の久利赤浪妙行代子息朝房軍忠状(久利文書)に「三隅郷地頭二郎入道以下輩」とあり、三隅二郎入道は河上郷(現江津市)地頭らの城の救援にかけつけ、さらに金剛山に逃込んだ敵を攻撃している。当郷の地頭は益田氏の支族三隅氏で、寛喜元年(一二二九)に益田兼高の次男の兼信が納田郷、木束郷・永安別符(現弥栄村)、井村郷の地頭職を譲与されて三隅氏を称したという(三隅町誌)。
三隅郷
みすみごう
「和名抄」所載の郷。諸本とも三隅と記し、東急本・元和古活字本は「美須三」の訓を付す。現三隅町三隅・岡見・芦谷・西河内・湊浦(大日本地名辞書)、または現三隅町東平原・湊浦・三隅・芦谷・上古和・下古和・矢原・河内・古市場・岡見・井野に比定される(島根県史)。
三隅郷
みすみごう
「和名抄」高山寺本に「三隅」と記し、「美須見」と訓じるが、刊本では「美須美」と訓じる。ともに「みすみ」と読む。「延喜式」(兵部省)に「長門国駅馬」として「三隅」とあり、山陽と山陰を結ぶ小路の駅を兼ねたと思われる。郡の東南から仙崎湾へ注ぎ込む三隅川の流域に沿って開けた三隅上村・三隅中村・三隅下村(現三隅町)をその遺名とみることに異説はない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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