日本歴史地名大系 「上円井村」の解説 上円井村かみつぶらいむら 山梨県:韮崎市上円井村[現在地名]韮崎市円野町上円井(まるのまちかみつぶらい)釜無川を挟んで穴山(あなやま)村の対岸西方に位置し、村域は同川右岸の氾濫原から西部の山地にかけて展開する。北は宮脇(みやわき)村(現武川村)、南は下円井村。小武(こむ)川が宮脇村境をほぼ東流して当地で釜無川に合する。小武川や釜無川は当地付近でよく氾濫を起こし、古来、水害に悩まされ続けた。寛文一〇年(一六七〇)完成した釜無川から取入れる徳島(とくしま)堰の取水口が地内にあり、村の東部を甲州道中が縦断、村内に同道中の一里塚・立場各一ヵ所が設けられていた(宿村大概帳)。中世には下円井村と合せて円井郷と称したか。永禄四年(一五六一)の番長に「上つふらいの禰き」とみえ、武田家は当地の八幡宮(現持久神社)の禰宜に対して府中八幡宮への参勤を命じている。武田氏滅亡後の天正一〇年(一五八二)一二月七日、武川衆の米蔵六郎右衛門尉(信継)が「円井内五貫文」などを安堵されている(「徳川家康朱印状」米倉文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by