上原郷(読み)かんばらごう

日本歴史地名大系 「上原郷」の解説

上原郷
かんばらごう

京都東福寺領。上原を遺称地とし、内検帳などから高梁たかはし川右岸の新本しんぽん川下流域一帯に推定される。九条家文書に当郷関係文書約一五〇点がある(以下同文書は略)承久―貞応年間(一二一九―二四)に関東口入により、地頭請所となっていた。この頃、郷地頭は吉備津宮放生会大頭役と流鏑馬役を勤仕していた(貞応二年六月三〇日関東下知状案)。正応年間(一二八八―九三)には、地頭椙本宗明代信教と郷目代浄心が年貢代銭一二〇貫文をめぐって相論している(正応三年一〇月一〇日六波羅下知状)。永仁七年(一二九九)東福寺は淡路国志筑しづき(現兵庫県津名郡津名町)の三分一内半分の替えとして上原郷(尼性海跡)の支配を公認され、地頭職を寄進された(同年四月六日関東下知状)。同年、地頭代胤朝と郷雑掌頼信との間で、初任検注をめぐって相論が発生したが、六波羅探題は検注を主張する郷雑掌の要求をしりぞけている(正応元年一二月二三日六波羅下知状案)。正和二年(一三一三)備中在庁官人重氏が多数の人勢を率いて当郷に乱入し、地頭政所と民屋とを追捕した(同年七月二六日六波羅下知状)。同五年の上原郷国方年貢は三二貫文であり、元弘三年(一三三三)の領家方年貢は三五貫文であった(正和五年一二月二九日上原郷国方年貢請取状、元弘三年九月四日上原郷領家方年貢皆済状)

建武三年(一三三六)四月一二日の備中国留守所下文(案)で郷司職に任命された散位家長は、当該補任状の案文を上原郷沙汰人に送り、正文は入部した時に見せると通告している(同年四月一九日家長書状)。同年一〇月二六日、光厳院は院宣で領家職を造営料所として東福寺へ寄進した。建武五年八月、吉備津宮雑掌覚胤は当郷に対して放生会大頭役を勤仕するようにと命じ(吉備津宮雑掌覚胤申状)、東福寺雑掌時基はこれを承認した(同月二九日左兵衛尉時基請文)。暦応二年(一三三九)一月、光厳院は院宣を東福寺に下し祈祷の忠を致すべきことを命じた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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