上古川村
かみふるかわむら
蔵内村の西、小鴨川左岸に位置する。上古河とも記し、単に古川村ともよばれたが、同じ久米郡内に下古川村があり、同村に対して上古川の村名でよばれたという。また古川の地名は当地が天文一三年(一五四四)の大洪水で流路を東方に変えた小鴨川の旧流路にあたっていたためといわれる。拝領高は五一九石余、本免は五ツ。加須屋・吉村・河田・横山の各氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高五六〇石余、竈数四〇余、村内に伊勢宮大明神・三宝荒神(現上古川神社)を祀る。幕末の六郡郷村生高竈付では生高六〇三石余、竈数五五。川役銀四分・山役米二石四斗が課され、また牛市も開かれていた(藩史)。
上古川村
かみふるかわむら
[現在地名]立田村森川 上古川
東は佐屋川を挟み西保村(現佐屋町)、西は鵜戸川を越して富安村に接する立田新田の一村。「徇行記」によれば、概高二四一石余は一円蔵入地で、田は九町五反六畝余、畑は三町二畝余。「寛文覚書」に戸数一九、人数一〇一とある。「徇行記」は「山路村ヨリツヽキ卑湿ノ地ニシテ水損多ク貧村ナリ、御普請人足又ハ日傭カセキナトシテ渡世ヲ送ルナリ」と記す。
上古川村
かみこがわむら
[現在地名]柏村上古川
田圃を隔てて北は近岡村の支村の上近岡村、西は姥ヶ島村、南西は桑野木田村、北東は下古川村へ続く。慶安四年(一六五一)の岩木川の改修工事により、旧川筋が古川となったための村名と思われる。
天和三年(一六八三)の広須御新田所図に村名がみえる。享保一二年(一七二七)には広須組に属し、川通三二ヵ村の一つで村位は下と定められた(平山日記)。享保一六年の検地帳によれば、田畑屋敷合せて六九町一反八畝二七歩、村高は四五七・八〇三石であった。うち田方は五五町三反九畝五歩で四二七・八石、上田から下々田まで設定され、中田が一八町三反二一歩で一六四・七六三石、下田二〇町七反六畝二六歩、一四五・三七八石とあり、畑方は一三町七反九畝二二歩で三〇・〇〇三石、上畑から下々畑まで設定され、下畑が五町一反六畝二六歩で一五・五〇六石、下々畑七町七反五畝二五歩で七・七七二石とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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