古川村(読み)ふるかわむら

日本歴史地名大系 「古川村」の解説

古川村
ふるかわむら

[現在地名]徳島市応神町古川おうじんちようふるかわ

吉野川(別宮川)の左岸に位置し、東は榎瀬えのきぜ村・名東みようどう上助任かみすけとう村字北原きたばら、南は吉野川(別宮川)を挟み上助任村、西は中原なかはら村、北は吉野川(現今切川)を挟み鯛浜たいのはま(現北島町)。西部を南北に淡路街道が通り、上助任村と結ぶ古川渡が設けられていた(阿波志)。正保四年(一六四七)の海陸道度帳に古川舟渡とあり、幅六、七〇間、徳島より古川渡まで二二町とある。天正一七年(一五八九)一二月吉日の検地帳写(旧応神村役場文書)によると、反別四二町一反余(うち田九町六反余)・高三〇一石余。慶長二年(一五九七)の分限帳に古川とみえ、三〇一石余が吉浦弥太郎の知行分。寛永一七年(一六四〇)の知行割符帳(蜂須賀家文書)によると当村の二二石余を渡辺古が知行している。正保国絵図では高三〇三石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田方九九石余・畠方二〇三石余。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では蔵入高一五六石余。「阿波志」によると土田の等級は中下、陸田・水田の比率は半々で、租税七五七石で半分強が給地。家数一六五。文化五年(一八〇八)の棟付帳(板野郡誌)では家数二三三(うち寺二・神主一、郷付浪人二・先規奉公人七七・百姓一二四・見懸人七・渡守五・来人一三)・人数一千二八、馬七五・牛三。

古川村
ふるかわむら

[現在地名]吉川村古川

現吉川村の東部を占める小村で、東西・南北ともに一・三キロほど。東は赤岡あかおか須留田するだ(現赤岡町)の両村、北は土居どい野市のいち(現野市町)の両村で、赤岡村との境を香宗こうそう川が曲流。村の西部はからす川が南流し、香宗川下流に合流する。その河口西岸のまつ地区は西隣の吉原よしはら村から連なる砂丘の末端部で、その西の吉原村住吉すみよしの地にかけては弥生時代後期末葉の住吉砂丘遺跡がある。昭和一〇年(一九三五)頃に発見されたこの遺跡は、ハマグリを主体とする、径一メートル前後、厚さ一〇センチ程度の小貝塚を伴う。出土の土器は甕形・壺形・高坏形などで、すべてがこの地方の弥生後期末葉のヒビノキII式土器である。貝塚があるところから、この地には早くに集落があったと思われるが、その後近世まで付近に集落が形成された跡はみえない。

中世は香宗我部こうそがべ郷に属し、天正一六年(一五八八)の香宗分地検帳によれば、香宗川北岸に龍山ノ前村・八幡ノ前・新田ノ村などの水田地帯が広がっているが、すべて「シホ入」「散田」とあり、高潮と出水の害を受けやすい湿田である。

古川村
ふるかわむら

[現在地名]津市東古河ひがしふるかわ町・西古河にしふるかわ町・はつ町一―二丁目・しん町一―二丁目・南新みなみしん町・大園おおぞの町・丸之内養正まるのうちようせい町・西丸之内にしまるのうち南丸之内みなみまるのうち

津城下の西、八町の北に接続する村。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に「古川村」と出る。もと現在地より南方約一キロの辺りに集落があったが、刑部おしかべ村が西へ移された跡へ慶長年間(一五九六―一六一五)に移ってきたとの伝承を、江戸末期に当村に居住した岩津氏が「安濃名所記」に記している。当時の村域はその辺りまで及んでおり、現在でもその付近を古川南町とも称し、また古川の地名は古川南町辺りを通ったと考えられる安濃あのう川の旧流路にちなむものと思われることからも、集落の移動を推定できよう。当村内には一帯に条里地割の痕跡が残り、明治初年の地籍図によると、八町通りの南方に、一坪・二坪・三坪・四坪・五坪・六坪・七坪・九坪などの地名が認められ、安濃郡条里の四条四里ないし五里に相当するものと推定される。

古川村
ふるかわむら

[現在地名]酒田市刈穂かりほ

大島田おおしまだ(現飽海郡八幡町)の西に位置し、南は上安田かみやすだ村、日向につこう川の支流荒瀬川の自然堤防上に立地。古河村とも記した。一五世紀初期の末代の日記(市条八幡神社文書)に「六月卅かうハ、ふるかうのつくゑたから、たいへひとつ、しらのさけたひへふたつ」とあり、地内の机田つくえだ市条いちじよう八幡宮(現八幡町)の祭礼の役田として酒を負担していた。長享三年(一四八九)書写の一条八幡宮祭礼日記(同文書)には「フルガウノ四郎大郎ツクリ、ツクヱ田三千苅」とみえる。机田は三千刈で四郎大郎なる者が作ったとあり、この頃当地は「フルガウ」とよばれていたことがわかる。

慶長六年(一六〇一)太閤検地に反対して真室川まむろがわ(現最上郡真室川町)に逃れていた朝日山あさひやま城主池田盛周が最上氏より当地に禄一〇〇石を与えられ、志村氏配下となって各地に新田を開発したという(山形県史)

古川村
ふるかわむら

[現在地名]神石町古川

高光たかみつ村の西北、福永ふくなが村の北に位置し、東は相渡あいど村、西・北は甲奴こうぬ上領家かみりようけ村・五箇ごか(現総領町)、比婆郡未渡みど(現東城町)。西・北の郡境にはきよう(大行山・小行山の総称、約八二〇メートル)を中心に七〇〇メートル級の山が連なるが、相渡・高光・福永とはそれぞれの谷で結ばれる。福永との境にある竜王りゆうおう(七二八メートル)には雨乞の竜王を祀る小社がある。村内中央を南北に西城路が通り、これに沿って本郷ほんごうたおよしさこの集落が開け、これに直交するように田口たぐち間谷まだに仁後にごの谷が甲奴郡へ開ける。

古川村
ふるかわむら

[現在地名]加治川村古川

加治川右岸に位置し、北は二本木新にほんぎしん村、南は川尻かわしり村。文永三年(一二六六)七月一三日の佐々木加地重朝譲状案(山形大学所蔵中条家文書)に「かちのしやうふるかハのてう」とみえ、重朝は「すさきのむら」を除いた加地かじ庄古河条内の田畠・在家・荒野を娘の源光如御前に譲っている。元応二年(一三二〇)当条の年貢検注をめぐって加地庄の預所孝順は、当条内なか村の地頭尼道信(光女)を訴えたが、当条は未開発地であるとの道信の主張を認め同年一一月二二日和解している(「孝順和与状」同文書)。元亨三年(一三二三)三月二二日、道信は孫の光童(羽黒義成)に当条の田畠・在家・荒野を譲っている(「尼道信譲状案」同文書)

古川村
ふるかわむら

[現在地名]浮羽町古川

筑後川中流域左岸に位置する。南東は大石おおいし村、北の筑後川対岸は筑前国池田いけだ(現杷木町)。日田街道の別路、筑後からの彦山参詣路が通り(久留米市史)、一里塚が置かれた(元禄国絵図)。当地の筑後川(川幅七〇間)には古川渡が設置され、筑前国が出す舟一艘があった(在方諸覚書)。明応(一四九二―一五〇一)頃、菊池氏の重臣城重岑が五条氏(良邦か)に「重朝様御代」以後知行相違なき地として保証を与えた生葉いくは郡内の所領のうちに「古河」三〇町がみえる(八月一六日「城重岑書状」五条家文書/史料纂集)。なお寛治三年(一〇八九)に観世音寺(現太宰府市)が肥前宇野うの御厨の贄駆士と称する松永法師と領有権を争った「生葉郡字中島」は、北を「大川」、南を「古川」によって限られており(同年九月二〇日「大宰府公文所勘注案」東南院文書/平安遺文四)、筑後川本流と旧河道である古川に挟まれた中洲状の地が古河(古川)とよばれるようになったと推定される。

古川村
ふるかわむら

[現在地名]鏡野町古川

香々美かがみ川と吉井川の合流点北側に位置し、南は吉原よしはら村・下原しもばら村、西は宗枝むねえだ村、北は寺元てらもと村に接し、東の微高地に分郷の布原ぬのはら村がある。慶長七年(一六〇二)の小早川秀詮朱印状(黄薇古簡集)によれば、下方覚兵衛が古川村のうちで一六〇石を知行している。立石家由緒書上案(立石文書)によれば、同八年森忠政は美作入部後、城地の選定のため古川村などを見回っている。同九年の検地では高九五八石余、拝領高七五〇石余との増高は二〇七石余となっている。名請人九五、屋敷数一九(「検地帳」佃文書)。寛永九年(一六三二)上坂主馬助は古川村の五四石余など計五〇〇石を加増されている(「森忠政宛行状」黄薇古簡集)。正保郷帳の高七五〇石余、うち田方六六四石余・畑方八五石余とある。

古川村
ふるかわむら

[現在地名]観音寺市古川町

池尻いけのしり村の北に位置し、中田井なかだい村のいちたに池から流出した一ノ谷川が村中を流れる。現在では当地北方をほぼ西流する財田さいた川は弥生時代には乱流を続け、当地の南下みなみしも樋之口ひのくちの両集落一帯は中洲の状態で陸地を形成していたと考えられる。当時の財田川は江藤えとう集落の上から中田井の高樋たかび集落に向かい、当地山之前やまのまえ・南下集落の丘陵の裾を流れ、現在の鶴沢つるさわ池や善憎ぜんぞう池の地点では淵を形成していたとも考えられる。

古川村
ふるかわむら

[現在地名]米子市古豊千こほうち

下豊田しもとよだ村の東、日野川右岸にある。「伯耆志」には、当村は官道(出雲街道)を挟んで豊田村と人家が一村のように連なるとあり、元禄一五年(一七〇二)の洪水以前は日野川は当地東方を流れており、両村の道はかつて川の西岸の堤であったというと村名の由来を記す。字ばんに舟場と称する家数軒があり、下新印しもしい村からの渡しがあったことを物語る。当村の開発は宝永年間(一七〇四―一一)頃から始まり、享保四年(一七一九)頃から定住者が出た。

古川村
ふるかわむら

[現在地名]富山市古川

婦負郡草島くさじま村の出村で、旧神通川跡に立てられた新開村。西は同郡くぼ村・西岩瀬にしいわせ町。婦負郡に属し、富山藩領。文久元年(一八六一)以降宮川組に属した。万治元年(一六五八)・寛文八年(一六六八)の神通川の大氾濫により流路が東遷し、河川跡の草島村領古田こでん跡のうち南部は享保一五年(一七三〇)より開拓され、のち金山新かなやましん村となった。北部の旧河川下流は低地であること、富山藩主の御鷹場があったこと、加賀・富山両藩の藩境にあることなどのため新開着手が遅れた。

古川村
ふるかわむら

[現在地名]古川市諏訪すわ一―三丁目・かまえ西館にしだて一―三丁目・城西しろにし一―二丁目・古川

大崎おおさき平野中央にあり、北は小泉こいずみ村、東は大柿おおがき村、南は稲葉いなば村、西は塚目つかのめ村に接する。「安永風土記」に「往古ハ玉造川当村ヲ流候由ニ御座候処古川筋只今ハ北ヘ相廻リ当郡江合村ヲ流申候仍川跡川原ニ罷成候処民家相出申候故古川村ト相名附候由申伝候事」とあり、玉造たまつくり(江合川)の流路の変化により古い川筋に村ができ、村名となったという。

古川村
ふるかわむら

[現在地名]東区あけぼの町一―五丁目・ひかり町一丁目・二葉の里ふたばのさと一―三丁目

尾長おなが村の南に沿ってほぼ東西に細長い村で、城下新開組に属した。南は大須賀おおすが村と城下分の矢賀やが(現南区)に接する。元和五年(一六一九)の安芸国知行帳にはみえず、「知新集」に「明星院の傍より横に一すち矢賀村へ流落る川ありしを、後にせきとめられしより、古川すちといひ、其あたりを古川村ともよひたるよし」と記し、寛永―正保(一六二四―四八)頃古川を塞、天和三年(一六八三)地詰が行われたとされている。

古川村
ふるかわむら

[現在地名]松山市古川町ふるかわまち

松山平野の南平坦部に位置する農村。東は石井いしい村・居相いあい村、西は一之坪いちのつぼ村、南は重信しげのぶ川を隔てて徳丸とくまる(現伊予郡松前町)、北は浅生田あそうだ村に接する。村の南部をうち川が西流して重信川に合する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)久米くめ郡の項に「古川村 小川有」とある。しかし近世村落の成立はこれより古く、片平かたひら村とよばれていた(愛媛県農業史)

古川村
ふるかわむら

[現在地名]小野市古川町

喜多きた村の東に位置し、東条とうじよう川両岸の沖積地に立地する。中世には奈良東大寺領大部おおべ庄の北端に位置したとされる。耕地・集落ともに右岸に集中し、左岸は南から丘陵が迫り耕地は少ない。慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代は初め姫路藩領、元和三年(一六一七)幕府領となったと推定される(正保郷帳など)。宝永三年(一七〇六)出石藩領となり(「仙石政明知行目録」仙石家文書)、延享三年(一七四六)以降は三卿の一橋領となる(「一橋家領知高帳」一橋徳川家文書など)

古川村
ふるかわむら

[現在地名]大田区西六郷にしろくごう一―二丁目・新蒲田しんかまた三丁目・多摩川たまがわ二丁目、神奈川県川崎市さいわい小向仲野町こむかいなかのちよう

道塚みちづか村の南、六郷ろくごう(多摩川)左岸沿いの低地に立地。対岸に飛地があり、また当村と同名の橘樹たちばな郡の村がある。六郷川の旧流路跡地を八幡塚はちまんづか村民が開墾して成立したと伝え、古くは当村および八幡塚・町屋まちや高畑たかはた・道塚・雑色ぞうしきの六ヵ村を六郷村と称したという(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田方九〇石余・畑方二五石余、ほかに見取場田三町余があり、すべて幕府領。元禄一一年(一六九八)の検地帳(森家文書)によると高一一九石余、うち田方八町九反余・高八四石余、畑方五町九反余・高三四石余、ほかに芝原一反余(永七文)・藪二畝余(永七文)がある。

古川村
ふるこむら

[現在地名]伊万里市南波多町みなみはたちよう古川

波多川に注ぐ笠椎かさじい川の水源となる盆地。隣接の大川野おおかわの盆地との間に標高八〇メートルの「えざらぎ峠」がある。小字名に烏帽子えぼうし佩川はいごう八番目はちばんめ小豆野尾あずきのおなどがある。正保絵図に村名がみえる。

佩川に山祇やまづみ神社があり、元和元年(一六一五)大内義信の創建という。その九代の後、山口弘興が弘化二年(一八四五)社殿を改築。山口家由緒録は、文化一一年(一八一四)、文政五年(一八二二)、天保一〇年(一八三九)の記録で、庄屋取立ての時、家系を上申した控であり、これによると義信は周防国山口城主大内義隆の従弟で、天文二〇年(一五五一)義隆が家老陶晴賢の謀反にあい自害した際、義信も殉死。

古川村
ふるかわむら

[現在地名]谷和原村古川

加藤かとう村の東、中通なかどおり川の西に位置。「寛文朱印留」によれば下総佐倉藩大給松平氏領であったが、「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には旗本藪信七郎の知行地で村高四一一・四〇九石。村内は本田坪ほんでんつぼ新田坪しんでんつぼ南長張みなみながはり・北長張・鎌田かまた沼田ぬまた上田うえだ南上田みなみうえだ東前ひがしまえ・西前・前田まえだ田中たなか鉦打かねうち往来附おうらいづき裏耕地うらこうち東北耕地とうほくこうち・西北耕地・高堤たかづつみなどに分れ、愛宕あたご神社は祭神火皇産霊命。

古川村
ふるかわむら

[現在地名]伏見区羽束師はつかし古川町

かつら川の西岸志水しみず村・菱川ひしかわ村の南に位置する。南は樋爪ひづめ村と境し、西は馬場ばば(現長岡京市)に接する。

「山槐記」治承三年(一一七九)一一月一八日条に「前関白従一位、年卅五、未被聴牛車之人也被遷大宰権帥下向給」の記事があり、更に同二一日条に「後聞、今日於古河宿出家給云々」とみえている。この前関白は藤原基房で、平清盛の奏請に基づき、大宰府だざいふ(現福岡県筑紫郡太宰府町)、後に改めて備前に配流された。その彼が都を落ちる途次、三五歳の若さで出家したのが当地古川の宿であった。

また貞永元年(一二三二)成立の「洞院摂政家百首」に、次のような歌が収められている。

古川村
ふるかわむら

[現在地名]大野町古川

上秋かんだけ村の北にあり、北にいし山がそびえる。近世初期には小瀬こせまたは古瀬こせと称したらしく、慶長郷帳に「こせ村」とみえ高五〇四石。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では奥平忠隆(加納藩)領。正保郷帳には小瀬村(岩瀬文庫本正保郷帳では古瀬村)とあり、大垣藩領で田三九八石余・畑一〇五石余・山年貢一石。元禄郷帳には古川村とあり、高五〇四石で旗本戸田領。明治三年(一八七〇)の村明細帳によれば高五五〇石余、家数五四・人数二三八、馬三三、石灰竈三ヵ所。貞享四年(一六八七)西の寺内じない村との間に起きていた更地さらじ井水をめぐる争論に裁許が下された(村瀬文書)。文化一四年(一八一七)更地村は当村地内の山林から伐り出される檜材木の川下げ作業を農間稼にしたいと出願している(「願書」県立歴史資料館蔵)

古川村
ふるかわむら

[現在地名]安心院町古川

内川野うちがわの村の南東、山蔵やまぞう川流域にあり、東は豊後国速見郡山浦やまうら(現山香町)川床かわどこ、同所とは古くから境界争いがあった。中世佐田さだ庄内古川名の遺称地。大永三年(一五二三)の国堺方指案(安心院町誌)に「古川河床堺」とみえる。同四年のものと思われる二月六日の古川景助条々手日記案(佐田友雄文書)などによると、古川名と川床村との間で山野用益をめぐっての境相論が生じ、古川名の井手二ヵ所を切落されている。そこで古川名主古川三郎左衛門は佐田庄地頭佐田泰景に訴えた。佐田方は川床領主小原長述と交渉し、山香地頭の仲介により同年一一月境界を確認して解決となった。

古川村
ふるかわむら

[現在地名]幸区古川町

多摩川右岸にあり、東は小向こむかい村・戸手とで村、北は下平間しもひらま村、南西は塚越つかごし村に接する。北方を大師河原だいしがわら用水が通る。「風土記稿」は村民は戸手古川とでふるかわと称すと記し、鶴見田つるみだ関免せきめんなどの小字からなる。田園簿に村名がみえる。近世は初め幕府直轄領、寛文四年(一六六四)久世領、同九年六月久世氏が下総関宿藩主に封ぜられたため同藩領となり、享保二年(一七一七)江戸芝増上寺領となる。川崎宿助郷を勤め元禄七年(一六九四)の助郷高一一六石(「川崎宿助郷帳」森文書)、増上寺領編入以降助郷を免除された。

古川村
ふるかわむら

[現在地名]吉川町古川

吉田よしだ村の北に位置し、北谷きただに川下流左岸の丘陵地に立地する。江戸時代初期は下荒川しもあらかわ村と称した。領主の変遷は吉谷きつたに村と同じ。正保郷帳に下荒川村とみえ、田方三九四石余・畑方三三石余。元禄郷帳に古川村とみえ、「古ハ下荒川村」と注記される。天保郷帳では高五〇一石余。田方は定免で四ツ五分五厘(美嚢郡誌)。享和二年(一八〇二)の明石藩領吉川谷よかわだにの強訴事件では当村の武兵衛が村追放となっている(吉川町誌)

古川村
ふるかわむら

[現在地名]浜松市古川町

立野たての村の北に位置。西は石原いしはら村、北は金折かなおり村。大日本帝国陸地測量部が明治二三年(一八九〇)に測図した地形図には金折村と西にし村の間を西へ進み、石原村と向金折むかいかなおり村の間、さらに四本松しほんまつ村と立野たての村の間を通る弓なりの河道跡が認められる。当村の集落は河道跡の北縁に帯状に描かれており、地名の古川はこの旧河道をさし、同地を開発して成立した村落と考えられる。松平忠頼領郷村帳に古川新田とみえ、高四五石、反別はすべて田方で三町七反余。

古川村
ふるかわむら

[現在地名]安来市古川町

植田うえだ村の南に位置し、ほぼ中央部を飯梨いいなし川が北東流する。東は矢田やだ村、南は新宮しんぐう(現広瀬町)、西は町帳まちちよう村・広島原ひろしまばら(現同上)。正保国絵図に広島原村とともに一つの村形の中に村名が記される。「雲陽大数録」には単独で載り、「郡村誌」によると田三四町二反余・畑一二町余・宅地二町一反余・山林八一町四反余、戸数三九・人数一九〇、牛一七、荷車四。物産は西瓜・米・麦・小麦。

古川村
ふるかわむら

[現在地名]青森市古川一丁目、古川二―三丁目・しん町一丁目・柳川やなかわ一丁目・篠田しのだ一丁目・千刈せんかり一丁目・久須志くすし一丁目の各一部

東は青森町、南は大野おおの村、西はたき村、西北は沖舘おきだて村に接する。

貞享四年(一六八七)の検地帳に沖舘村の新田で、古川新田とあり村高一七〇・二三石、うち田方一五七・五四四石、畑方一二・六八六石とある。元禄三年(一六九〇)には古川村となり油川組に属し、村位は中である(平山日記)

古川村
ふるかわむら

[現在地名]近江八幡市古川町・柳町やなぎまち益田町ますだちよう

森尻もりしり村の西、安養寺あんようじ村の北に位置する。村内を北西流する日野川は古くは当地を北上していた。古河村とも記した。北部の枝郷益田村は旧日野川河川敷を開墾して成立したものと思われる。慶長七年(一六〇二)徳川家康は旗本柘植正勝と同志村資良に当村などを与えている(蒲生郡志)。同一六年一部は旗本一尾領となり、寛永石高帳では高一千二二九石余、柘植領三四三石余・一尾領五四三石余・志村領三四三石余。

古川村
ふるかわむら

[現在地名]立山町古川など

東大窪ひがしおおくぼ開の西に位置し、南は末三すえさん開、西は引越向新庄ひつこしむかいしんじよう村。高原野たかはらのの内。もとは常願寺川左岸に位置し、新川郡しま郷に属したが、安政五年(一八五八)の常願寺川大洪水により右岸の高原野に移転して成立した。万延元年(一八六〇)の引越村々等截分之場所分間絵図(県立図書館蔵)では貫田ぬきた村と引越日俣ひつこしひまた村の間に三ヵ所の土地を与えられている(立山町史)

古川村
ふるかわむら

[現在地名]佐々町古川免ふるかわめん

佐々村の北西部に位置し、佐々川西岸にあたる。貞元二年(九七七)古川伊予守が当地を訪れ、三尊さんそん大明神(三柱神社)を祀ったと伝え、大永五年(一五二五)円智が鳥屋山古川こせん庵を設けた。中世には志方しかたの志加田氏が鳥屋とや城を築いていた。江戸時代は佐々村の枝郷で、明暦二年(一六五六)の畑方帳抜書に佐々村内として志方古川しかたふるかわ免とある。

古川村
ふるかわむら

[現在地名]津島市古川町

佐屋路(下街道)の北側に沿っており、北と東は諸桑もろくわ(現海部郡佐織町)に、南と西は津島村に接している。織田信雄分限帳に「一、百三拾貫文 ふる川の郷 服部小藤太」とあるのが文献上の初見。弘化四年(一八四七)村絵図(徳川林政史蔵)によれば、集落は村域のほぼ中央で東西に長く延びている。集落中央に「府志」記載の真宗大谷派名念みようねん寺が、東端村境に墓所が、西端村境に鎮守の神明社が左右対称の位置に記されている。

佐屋代官所支配下の蔵入村。

古川村
ふるかわむら

[現在地名]犀川町古川

みぞ村の東、本庄ほんじよう村の北東に位置し、高屋たかや川東岸の平坦地に集落が形成されている。元和八年人畜改帳によると御蔵納分の高二二二石余と給人二人分の高三五〇石の二筆に分けられ、家数五〇・人数一二五(うち百姓一六・名子など一九・鍛冶一)、牛一三・馬六。寛永九年(一六三二)の高五七三石余(「仲津郡寛永六年七年八年三ヶ年之御免帳」永青文庫)。郷村高帳では高五八四石余、うち新田高一一石余。

古川村
ふるかわむら

[現在地名]朽木村古川

安曇あど川左岸、穴瀬あながせ村の南にある。文明五年(一四七三)一〇月二二日の古川道清畠地売券(朽木文書)に古川とある。大永二年(一五二二)一二月一八日の米下行帳(同文書)では古川は朽木氏から五石の連判米(出挙米)を借用している。享禄三年(一五三〇)二月二一日の御元服付御懸銭帳(朽木文書)に「古川分」として一〇筆分、計四貫八〇〇文が記される。

古川村
ふるかわむら

江戸後期の上下新川郡絵図(高樹文庫)によると常願寺川左岸近くにあり、東は西芦原新にしあしはらしん村、北は日俣ひまた村、西はしま村。安政五年(一八五八)の常願寺川大洪水により、同川右岸の高原たかはら(現立山町)に新たに古川村を開いた。旧村の所在地は現在の常願寺川付近とみられる。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高五三石、免四ツ、元禄五年(一六九二)の川崩れによる検地引高二二石(三箇国高物成帳)

古川村
ふるかわむら

[現在地名]入善町吉原よしわら

北は吉原村、南は道市どいち村。近世初め頃までこの辺りを黒部川の主流部の一流が流れていた。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二一石、免一ツ五歩(三箇国高物成帳)。延享元年(一七四四)以降五回にわたって増高があり、天保一一年(一八四〇)には草高四三石となる(「高免帳」杉木家文書)。享保一八年(一七三三)には家数六(「新川郡村廻帳」川合家文書)

古川村
こかわむら

[現在地名]横芝町古川

横芝村の北東に位置し、東を栗山くりやま川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に小川村とみえ、高一二六石。元和七年(一六二一)旗本岡部領となる(文化一二年「知行所村々覚」大森家文書)。正保国絵図では古川とあり、同高。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では横芝組に属し、岡部領。元禄郷帳では高一三一石余。以後、村高は幕末まで同じ。

古川村
ふるかわむら

[現在地名]鹿角市十和田錦木とわだにしきぎ 古川

北流する米代川が流路を西に変える所に位置し、東は浜田はまだ村。集落北側で大湯おおゆ川と小坂川が合流する。寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に村名が出、村高一三五石二斗余、民戸三四軒、馬三五匹。菅江真澄の「けふのせば布」に「古川といふ村につきて、錦木塚と聞しやあると尋れは、稲かる女田の中に立て、かりあけたる田の面を行て、大杉の生たるあなたと鎌さして、そことをしへたり」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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