上杉憲忠(読み)うえすぎのりただ

精選版 日本国語大辞典 「上杉憲忠」の意味・読み・例文・類語

うえすぎ‐のりただ【上杉憲忠】

  1. 室町中期の関東管領。憲実の子。父憲実と共に出家したが、のち還俗山内上杉家督をつぎ管領に就任足利持氏の子成氏と反目し、襲われて討死永享五~享徳三年(一四三三‐五四

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「上杉憲忠」の解説

上杉憲忠
うえすぎのりただ

1433~54.12.27

室町中期の武将。関東管領。山内上杉氏。憲実の子。永享の乱後,上杉氏の重臣団が関東の実権を握ったが,乱で敗れた足利持氏の与党などは持氏の遺子鎌倉公方足利成氏(しげうじ)を擁して対抗両者対立は深まった。1450年(宝徳2)山内上杉氏の家宰長尾景仲らは鎌倉周辺で成氏軍と戦ったが勝利をえられず,憲忠は鎌倉から七沢(ななさわ)(現,神奈川県厚木市)に退いた。まもなく鎌倉に帰ったが,54年(享徳3)成氏邸に誘い出され殺された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「上杉憲忠」の解説

上杉憲忠 うえすぎ-のりただ

1433-1455* 室町時代の武将。
永享5年生まれ。上杉憲実の子。鎌倉公方(くぼう)足利持氏をほろぼした(永享の乱)のち,父とともに出家。長尾景仲らの要請で還俗(げんぞく)し,文安5年関東管領となる。のち持氏の子成氏(しげうじ)が公方に就任すると対立。享徳3年12月27日成氏邸で結城成朝(ゆうき-しげとも)らに殺された。22歳。初名は竜忠。

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