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上杉憲実 うえすぎのりざね

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

上杉憲実
うえすぎのりざね

[生]応永18(1411)
[没]文正1(1466).閏2. 長門
室町時代の武将。越後上杉房方の3男。幼名は孔雀丸,のち四郎。号は高岩長棟雲洞庵主。山内上杉憲基の養子となって山内上杉家を継ぎ,安房守を称する。応永 26 (1419) 年関東管領として足利持氏の執事となり,上野,伊豆,越後を領した。永享8 (36) 年持氏が信濃守護小笠原政康を討とうとしたが,これを諫止したことや,さらに同 10年持氏の嫡子賢王丸の元服問題で対立するなど,持氏との関係が悪化して上野国に帰った。持氏は憲実追討の兵を起したが,持氏討伐を企てた将軍足利義教に攻められ,永享の乱となった。憲実も京軍に加わり武蔵分倍河原に出陣。同 11年持氏敗死ののち,一時関東の政務をとったが,家督を弟清方に譲り,宝徳1 (49) 年伊豆の国清寺で出家,諸国行脚の旅に出た。のち大内氏を頼り,長門大寧寺に住んだ。また鎌倉在住の頃,所領下野の足利学校を再興し,書籍を集め学徒を養成している。

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百科事典マイペディアの解説

上杉憲実【うえすぎのりざね】

室町時代の関東管領。越後(えちご)上杉房方(ふさかた)の子。上野(こうずけ)の守護。越後上杉家から養子に入り,山内(やまのうち)上杉家を継ぐ。永享の乱には幕命に従って主君鎌倉公方足利持氏を滅ぼした。
→関連項目上杉氏結城合戦

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

上杉憲実 うえすぎ-のりざね

1410-1466 室町時代の武将。
応永17年生まれ。父は越後(えちご)守護上杉房方。山内上杉憲基の養子となり,応永26年関東管領をつぐ。将軍足利義教と鎌倉公方(くぼう)足利持氏との融和をはかる。やがて公方と対立。永享10年幕府連合軍と持氏をほろぼす(永享の乱)。のち出家し諸国をめぐり,長門(ながと)(山口県)大寧寺で文正(ぶんしょう)元年閏(うるう)2月6日没した。57歳。下野(しもつけ)(栃木県)の足利学校を再興したことで知られる。法号高巌長棟

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朝日日本歴史人物事典の解説

上杉憲実

没年:文正1.閏2.6(1466.3.22)
生年:応永17(1410)
室町時代の武将。関東管領。四郎,安房守。越後守護上杉房方の子で,山内上杉憲基の跡を継ぎ10歳の若年で関東管領となる。当時鎌倉公方足利持氏は,室町幕府からの独立の姿勢を強め関東の反対派の掃討を進めていたが,憲実はこれに従いつつも幕府と通じ,持氏の独走を牽制する役割を果たした。しかし結局持氏に疎んぜられ,永享10(1438)年,持氏の攻撃を避けて上野に退去し,直ちに派遣された幕府の救援軍と呼応して逆に鎌倉に迫り,ついに持氏を降伏させた。しかし将軍足利義教は憲実の嘆願を容れずに翌11年に持氏を自殺させ,憲実は主人を死に追い込んだ悔悟の念から出家して伊豆に隠退した。同12年に結城合戦が起きると一時復帰して下野小山の陣まで進んだが,その後また隠退を望み,幕府の命令も拒んで再び伊豆に入り,さらに周防に赴き長門大寧寺で死去した。幕府の絶大な信任を得,関東の武士からも信頼された人物でありながら,関東の政治の中心に立つことを拒み続け,流浪の人生を選んだその個性と行動は極めて特異である。儒教や易に通じ,鎌倉円覚寺の快元を招いて下野の足利学校を再興したことは有名である。<参考文献>『神奈川県史』通史編1巻

(山田邦明)

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世界大百科事典 第2版の解説

うえすぎのりざね【上杉憲実】

1411‐66(応永18‐文正1)
室町前期の武将。越後上杉房方の子。山内上杉憲基の養子となる。1419年(応永26)憲基の跡を受けて関東管領となった。上杉禅秀の乱以後,鎌倉公方(くぼう)足利持氏が幕府からの自立と公方権力の専制化をはかったのに対して,憲実は幕府との協調と妥協を主張したので,両者の間でしばし対立が生じた。とくに36年(永享8)持氏が信濃の内紛に介入しようとしたことに憲実が反対したこと,また38年持氏が慣例を無視して子義久の元服式を鶴岡八幡宮で強行したことなどで,両者の対立は深まった。

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大辞林 第三版の解説

うえすぎのりざね【上杉憲実】

1411?~1466) 室町中期の武将。上杉(山内)憲基の養嗣子。関東管領。将軍足利義教と鎌倉公方くぼう足利持氏の間の調停に努めたが、1438年の永享の乱で持氏が自殺させられたあと出家、諸国を行脚した。足利学校の再興者。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

上杉憲実
うえすぎのりざね
(1410―1466)

室町中期の武将。関東管領(かんれい)。越後(えちご)守護上杉房方(ふさかた)の子。山内上杉憲基(やまのうちうえすぎのりもと)の養子となる。1419年(応永26)伊豆、上野(こうずけ)守護に補任(ぶにん)され、関東管領に就任した。4代将軍足利義持(あしかがよしもち)の死(1428)後、次期将軍を期待していた関東公方(くぼう)足利持氏(もちうじ)が、将軍の後継者となった義教(よしのり)を攻めんとしたとき、憲実はこれを諫止(かんし)した。以後幕府に反抗し続ける持氏をつねに諫(いさ)め、やがて持氏と憲実の間は不穏なものとなった。38年(永享10)持氏による憲実討伐の風聞に、憲実は領国上野へ出奔、幕府の命を受けて翌年持氏を自殺させた。やがて出家し(永享(えいきょう)12年3月以前)伊豆国清寺に籠居(ろうきょ)したが、幕命により俗界に復帰し、一時関東の政務をみた。その後鎌倉を去り諸国行脚(あんぎゃ)ののち、長門(ながと)(山口県)大寧寺(たいねいじ)で文正(ぶんしょう)元年閏(うるう)2月に没した。下野(しもつけ)(栃木県)の足利学校を再興している。[田辺久子]

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世界大百科事典内の上杉憲実の言及

【永享の乱】より

…1438年(永享10)8月から翌年2月にかけて,鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実,憲実を援護する将軍義教との間の抗争に端を発した東国の内乱。幕府と鎌倉府の関係は両府の成立以来必ずしも良好といえるものではなかった。…

【鎌倉公方】より

…持氏は,義持の猶子の扱いを受けて将軍職に望みをかけていたといわれ,それゆえか義教の将軍就任を喜ばず,京都の改元に従わず旧年号を襲用したり,将軍の保持する鎌倉五山住持の任命権を無視して,勝手に住持を任命したり,また足利荘などの幕府の御料所を押領するなどの行動をとった。この段階の対立は,32年(永享4)にともかくも京・鎌倉間の無事を願う管領斯波義淳・前管領畠山満家と関東管領上杉憲実という双方の管領の努力によって一時的な解消をみた。しかし,その後も将軍義教は,周囲の反対を押し切って駿河に下り富士遊覧を決行するなど持氏に威圧を加え続けた。…

【下野国】より

…上杉禅秀の乱に勝利した足利持氏は,宇都宮,那須など将軍に直結した京都扶持衆といわれる北関東の国人層の弾圧に乗り出し,京都の改元にも従わず,幕府の直轄領足利荘を押領するなど,専制権力の確立につとめた。穏健派の関東管領上杉憲実は持氏と不和になり,38年(永享10)永享の乱が勃発した。上杉=幕府方の下野武士は小山持政や小野寺通朝らで,持氏側には那須資重や長沼,茂木の各氏が味方した。…

【図書館】より

…旧金沢文庫所蔵本には国宝,重要文化財に指定された貴重書も少なくない。足利学校は,関東管領上杉憲実(のりざね)が15世紀半ばに一門の子弟のための教育機関として再興したもの。初代の庠主(しようしゆ)(校長)快元は易学の大家で,教育内容は儒学中心であったが,とりわけ周易を重んじ,部将たちに卜筮(ぼくぜい)をもって仕える者を養成したといわれる。…

【平井城】より

…平井は伊勢皇太神宮領高山御厨の内にあり,室町時代には関東管領で上野守護の山内上杉氏の拠点となった。築城の時点は明らかでないが,15世紀前半の永享の乱上杉憲実はここに拠っており,このころには城が築かれていたことが想定される。15世紀中葉の享徳の乱において,古河公方足利成氏と下総,下野の勢力に対抗するために,上杉方の本城として平井城の縄張りが著しく拡張されたと思われる。…

※「上杉憲実」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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