上柘植村
かみつげむら
小杉村の東に位置し、東は鈴鹿山脈の南端および布引山地の北部をもって伊勢国と接する。村内東部に源を発する柘植川は朝古川・平川を合せ西流し、油日岳(六九四メートル)南麓に源を発する倉部川は村の北部を西南に流れる。村の東半分はおおむね山地で、西方に耕地および集落がある。村の中央を東西に大和街道が通り、上柘植宿が設けられた。村は一村に相当する規模の下町・上町・小林・岡鼻・山出・倉部のそれぞれまとまった集落で構成される。壬申の乱が起こると吉野を出発した大海人皇子の一行は伊賀を通過して伊勢へ出た。「日本書紀」天武天皇元年六月二四日条に「会明に、
萩野に至りて、暫く駕を停めて進食す。積殖の山口に到りて、高市皇子、鹿深より越えて遇へり。(中略)大山を越えて、伊勢の鈴鹿に至る」と記す。積殖の山口は当村内近世の上柘植宿の東方辺りに比定される。
天平一九年(七四七)の大安寺伽藍縁起并流記資財帳(奈良市正暦寺蔵)には「伊賀国弐拾町 阿拝郡柘殖原 四至東山、南路、西百姓熟田、北山(中略)伊賀国二処 伊賀郡太山蘇麻庄一処、阿閇郡柘殖庄一処」とあり、大安寺(現奈良市)領の墾田二〇町および柘殖庄一ヵ所の大部分は当村域にあったと考えられる。東大寺は天平宝字二年(七五八)市原王から柘殖郷の土地一〇町歩を買得し通分田とした。その地は同年一一月二八日付の伊賀国司解(東南院文書)に「合地壱拾町開田四段、畠九町六段限東界朝宮谷、西南角界藤原夫人地、南界駅道、北界山嶺」とあり、さらに保安四年(一一二三)九月一二日付の明法博士勘状案(東大寺文書)にこの四至の注記として「件東界朝宮谷者、予野東堺賀茂岱東深谷也、南界駅道者、予野南堺伊勢路也」と記す。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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