天武天皇の皇子。母は胸形(むなかた)徳善の女尼子娘(あまこのいらつめ)。長屋王,鈴鹿王の父。672年(天武1)の壬申(じんしん)の乱のときには,天武の招きにより近江大津宮を脱出して,伊賀の積殖(つむえ)(現,三重県伊賀市柘植)の山口で合流し,美濃の不破関に遣わされて軍事を総管し,大いに活躍した。高市皇子は天武の長男だったが,その母が地方豪族出身者だったため,異母弟の草壁皇子,大津皇子よりはもちろん,年少の多くの異母弟よりも下位におかれることとなった。その序列は第8位と推定されている。しかし年長のこともあって重く用いられ,685年1月には草壁,大津につぐ浄広弍(じようこうに)の位を授けられた。ついで690年(持統4)7月には,皇太子草壁皇子の没後をうけて太政大臣に任命され,その年10月には藤原宮の地を視察し,693年1月には浄広壱を授けられたが,696年7月没した。《日本書紀》は後皇子尊(のちのみこのみこと)と記す。《延喜式》には,その三立(みたち)岡墓が大和国広瀬郡にあると記し,奈良県北葛城郡広陵町に字見立山(みたてやま)がある。その生前,678年異母姉妹十市(とおち)皇女の死に際してつくった3首の歌,およびその没後,柿本人麻呂が皇子の功績をたたえた長歌と短歌が《万葉集》巻二にある。
執筆者:原島 礼二
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天武(てんむ)天皇の最年長皇子。「たけちのみこ」とも読む。母は胸形君(むなかたのきみ)(宗像氏)徳善(とくせん)の女(むすめ)、尼子娘(あまこのいらつめ)。長屋王、鈴鹿(すずか)王の父。672年(弘文天皇1)の壬申(じんしん)の乱では父を助けて活躍。美濃(みの)の不破(ふわ)に派遣され軍事を監し、美濃の和蹔(わざみ)では父からことごとく軍事(指揮権の意)を授けられた。乱後近江(おうみ)群臣の犯状を宣し処罪した。685年(天武天皇14)浄広弐(じょうこうに)の位を授けられ、690年(持統天皇4)太政大臣に任ぜられ、翌年増封、計3000戸、692年には計5000戸、翌年位、浄広壱に昇り、持統(じとう)天皇10年7月10日薨(こう)じ、皇太子草壁(くさかべ)皇子に対し後皇子尊(のちのみこのみこと)と称せられる。『万葉集』に十市(とおち)皇女を悼む短歌3首がある。柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の皇子を悼む挽歌は、『万葉集』最長、雄渾(ゆうこん)な歌として有名である。
[横田健一]
(寺崎保広)
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…沖島から発掘された多数の祭祀遺跡はこのことを裏づけている。3神が記紀の神話に組み込まれ,アマテラスとスサノオによって生じたとされるのも,宗像氏が天皇家と擬制的な系譜関係を結んだしるしであり,宗像氏は采女(うねめ)を貢上し,その一人は天武天皇との間に高市皇子(たけちのみこ)を生むことになる。【武藤 武美】。…
※「高市皇子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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