上田中村(読み)かみたなかむら

日本歴史地名大系 「上田中村」の解説

上田中村
かみたなかむら

[現在地名]新田町上田中

大間々おおまま扇状地藪塚やぶづか面の扇端部とその南方の沖積地にあり、北西本村南東六供ろつくの二集落からなる。東境石田いしだ川が流れ、北は大根おおね村、東は上江田かみえだ村、南は下田中村、西は東新井ひがしあらい(現佐波郡境町)花香塚はなかづか村。仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重置文(長楽寺文書)に「たなか」とみえる(→田中郷。寛文四年(一六六四)の武蔵忍藩領知目録(寛文朱印留)に上田中村とみえる。寛文郷帳では武蔵忍藩領と旗本小栗・榊原・妻木領の四給。田方五九一石五斗余・畑方一九六石九斗余。元禄郷帳では旗本領の六給。天保三年(一八三二)には旗本山岡・大岡・妻木・榊原・板橋・武藤領の六給(「山岡十兵衛知行所村々高帳」赤石文書)。東部の水田は石田川、中央部の水田は村北部にあるあま沼水系による。


上田中村
うえたなかむら

[現在地名]市川町上田中

西川辺にしかわなべ村の南に位置し、市川支流の小畑おばた川と岡部おかべ川に挟まれる。神東じんとう郡に属し、西は北田中村中世田中庄に含まれた。慶長六年(一六〇一)一一月三日の池田輝政家臣地方知行状(鳥取県立博物館蔵)に田中村とみえ、宮脇清七は同村と揖東いつとう打越うちこし(現姫路市)のうちで合せて一〇〇石を宛行われた。慶長国絵図には西河野辺にしかわのべの南東に上田中・田中とみえる。元和四年(一六一八)には河合政甫が田中など七ヵ村で合せて二千五〇〇石を宛行われている(「河合又五郎系譜」三河武士のやかた家康館蔵)正保郷帳にも田中村とみえ、田方七五四石余・畑方七一石余、「かや山有・新田有」と注記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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