木崎宿(読み)きざきしゆく

日本歴史地名大系 「木崎宿」の解説

木崎宿
きざきしゆく

[現在地名]新田町木崎

木崎村を東西に貫く日光例幣使街道沿いの宿場。地元の伝承では初め「大明神前通り下田之頭辺」にあった家並が戦国期に「本宿」へ移り、さらに街道沿いに移って宿並ができたとされる(文政八年「木崎村往古人居古記」福島文書)。寛永一三年(一六三六)の徳川家康二十一回忌の際の奉幣使日野大納言は四月九日朝板鼻いたはな(現安中市)を出発し、同夜木崎に宿泊、翌朝太田へと向かった(中山日録)。しかし宿として形態を整えたのは同一九年頃という。元禄期(一六八八―一七〇四)以降、宿内を南北に通る道が銅山あかがね街道に指定され、通行量が増加したとみられる。日光への例幣使は当宿では原則として小休憩のみで、特別の場合を除き宿泊はなかった。文化二年(一八〇五)の宿明細帳(西沢文書)によるとしば宿(現伊勢崎市)へ三里二八町、太田宿へ一里三〇町の所にあり、宿内の往還の長さは東西に七町半、道幅は六間から七間で、東の上田島かみたじま(現太田市)境から宿の入口までは三町四二間余であった。宿内の家数一四四、寺四でうち本陣一・旅籠屋二七(大七・中八・小一二)、人数は六八二。脇本陣はなく必要な場合は旅籠屋があてられた。造酒屋一軒・小売酒屋六軒・食物屋五軒でほかに商家二〇軒があった。農間には男は往来請荷物駄賃稼、女は木綿糸取を行う。例幣使街道分間延絵図(東京国立博物館蔵)では中江田なかえだ村から入った街道が西から東へ通り、東端で北へ折れて上田島村へと抜ける様子が描かれている。同絵図では問屋三軒がある。前出明細帳では年寄を兼ねる問屋二名が半月替りで勤めるとあり、問屋場には下役二名・馬役一名が置かれていた。元治二年(一八六五)の徳川家康二百五十回忌などの大通行の際は問屋役四名、見習二名、馬差・張付各一名、問屋場助役九名など大勢が問屋場に詰めた(「宿方諸役割」中島文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報