日本歴史地名大系 「田中庄」の解説
田中庄
たなかのしよう
現打田町域の南半部にあった荘園で、北は
初見は藤原為隆の日記「永昌記」の天永元年(一一一〇)三月六日条で「於日吉御社八王子宝前、被始法花講(中略)件供養用途、以紀伊国田中庄地利被宛之」とみえる。この記事により、田中庄はそれ以前から摂関家領であったことがわかるが、成立過程は未詳。この近江日吉八王子社の法華講開始のことは中世には著名で、「平家物語」(巻一「願立」)にも「殿下の御領紀伊国に田中庄と云所を、八王子の御社へ寄進せらる。それよりして法花問答講、今の世にいたるまで、毎日退転なしとぞ承る」と記される。ただし寄進の年次は「平家物語」諸本に異同があり、「永昌記」とも異なる。「執政所抄」正月条にも「日吉八王
その後本家職は近衛家が伝領、建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家所領目録(近衛家文書)には「庄務無本所進退所々」のうちに「京極
田中庄
たなかのしよう
- 茨城県:筑波郡
- 田中庄
平安末期から戦国期まで所在した広大な荘園で、
とあり、田中庄は現筑波町田中周辺と考えられる。前記の頼朝の注進に対する勅裁は六月四日条にみえ、「常陸国村田 田中 下村庄」などは八条院(鳥羽天皇皇女)領と判定された。弘安大田文には「田中庄五百丁」、嘉元大田文には「下妻庄 三百七十町 同加納田中庄 五百丁」とあり、下妻庄からの出作により下妻庄荘域が拡大し、田中付近まで公田の私領化(加納田の成立)が進んで田中庄が成立したものと考えられる。立荘以来の領家職の変遷は村田庄・下妻庄の伝領と同一で、建武三年(一三三六)八月二四日の九条道教家領目録案(九条家文書)には、「常陸国村田庄号下妻庄領家職 同国田中庄号村田下庄領家職」とみえ、九条家領で、
田中庄荘域は、平安末期には常陸平氏本宗多気氏の本拠地であったが、建久四年(一一九三)多気義幹が失脚(吾妻鏡)し、代わって常陸守護となった八田知家(小田氏の祖)の子知氏は田中氏を称している(尊卑分脈)ので、田中氏が田中庄の地頭となったと考えられ、田中氏は小田氏庶流としての地位を確立した。
田中庄
たなかのしよう
市川およびその支流の
田中庄
たなかのしよう
田中庄
たなかのしよう
- 滋賀県:守山市
- 田中庄
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報