上高野村(読み)かみだかのむら

日本歴史地名大系 「上高野村」の解説

上高野村
かみだかのむら

[現在地名]豊中町上高野

羽方はがた(現高瀬町)の西、みや川流域にあり、北部は丘陵地で溜池が多く南部は平地が広がる。永禄元年(一五五八)一一月一五日、秋山兵庫助が同年一〇月二一日の麻口合戦の褒賞として「三野郡高瀬郷内御知行分反銭并同郡熊岡上高野御料所分内卅石」を給されている(「香川之景感状」秋山家文書)

寛永国絵図では熊岡くまおか郷に所属。熊岡郷は武田たけだ(竹田)・下高野・熊岡を含み高三千三一九石余。寛永一七年(一六四〇)の生駒領高覚帳では九九六石余、同一八年の小物成は綿九〇匁(山崎領小物成帳)。「西讃府志」によれば村の広さは東西一五町三〇間・南北一三町二〇間。高一千二〇三石余、反別は一五六町一反余、うち畑三二町一反余・屋敷一一町二反余。家数三〇五・人数一千三二九、牛一三一・馬一五。


上高野村
かみたかのむら

[現在地名]幸手市みなみ一―三丁目・なか一丁目・同五丁目・ひがし一丁目・さかえ・上高野

幸手宿下川崎しもかわさき村の南、古利根川左岸の沖積地の自然堤防上に位置する。西は同川を隔てて埼玉郡栗原くりはら(現久喜市)など、南は下高野村(現杉戸町)。日光道中と日光御成道が当地で合する。古利根川は琵琶びわ溜井と称され葛西かさい用水の水源となっている。「吾妻鏡」治承五年(一一八一)閏二月二三日条によると、下河辺行平・政義兄弟は志田義広らの追討のため「古我・高野等渡」を固めているが、高野渡を当地に比定する説がある。古利根川は古くは高野川とよばれ(元亨四年八月二五日「関東御教書」金沢文庫文書)、そこに設けられた渡しを高野渡と称したという(風土記稿)


上高野村
かみこうやむら

[現在地名]会津若松市高野町上高野こうやまちかみこうや

米沢に至る街道に沿い、北は下高野村、南は達磨だるま分。四方を水田に囲まれ、平沢ひらさわ堰が幾筋かに分れて田地を潤している。もと下高野村と一村で、高野・小屋・荒野とも記されたと思われる。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では門田もんでん郡のうちに上小屋とあり、高八二六石余。高久組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高九二四石余。


上高野村
かみこうやむら

[現在地名]八千代市上高野

下高野村の南に位置。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に村名がみえる。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一九二石余、佐倉藩領。以後幕末まで同藩領。寛延二年(一七四九)の佐倉藩領村高覚によれば、高二五九石余、新田改出高五石余。夫役永五七六文余・林下刈銭永五八〇文・山銭永一貫四四二文・野銭永一貫文。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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