下大越村(読み)しもおおごえむら

日本歴史地名大系 「下大越村」の解説

下大越村
しもおおごえむら

[現在地名]大越町下大越、船引ふねひき永谷ながや

中央を北流する牧野まぎの川の流域平地が開け、川沿いに南北の道が通る。堀越ほりこし川が村の中央部で牧野川に合流する。正保二年(一六四五)までに大越村が分立して成立。正保二年の在々屋敷数家数并人数(三春町史)では屋敷数四六・家数一八八、人数四二九(男二四九・女一八〇)。このうち男子八人は切支丹の被疑で江戸の三春藩邸に送られた。享保四年(一七一九)の取箇并人数(三陽骨要集)では本田高八〇六石余・新田高七四石余・新開高六三石余・栗原新田高一三六石余、ほかに下長屋しもながや(下永谷)に本田高二七石余・新田高三四石余・新開高三二石余がある。


下大越村
しもおおごえむら

[現在地名]いわき市平下大越たいらしもおおごえ

夏井なつい川が太平洋に注ぐ右岸にあり、北対岸は下神谷しもかべや村、東は太平洋、西は上大越村、南は藤間ふじま村。磐前いわさき郡に属した。近世領主変遷は磐城平藩領から延享四年(一七四七)以降幕府領。もと大越村のうちで、元禄郷帳では下大越村は高六一九石余、しも新田は高二七六石余。天保郷帳には「古者 下大越村・下新田弐ケ村」と注記される。元文四年(一七三九)の御城米渡海に付申渡証文(内藤家文書)では村役人四人・棒手振一人がいる。延享四年の村明細帳(同文書)によれば本田高六一九石余・反別六八町余、新高二八六石余・反別二六町三反余、家数一三四(うち本百姓六〇・水呑七一)、人数六〇五、馬六九。


下大越村
しもおおごえむら

[現在地名]加須市大越

北は利根川を境としてしま(現群馬県板倉町)飯積いいづみ(現北川辺町)と対し、東は外野そとの村、南は中大越村、西は上大越村。羽生はにゆう領に所属(風土記稿)。古くは大越郷、江戸時代初期は大越村に含まれた。元禄郷帳に下大越村とみえ高八八四石余。旗本大岡領(国立史料館本元禄郷帳)。宝永年間(一七〇四―一一)中大越村が分離(風土記稿)。幕末まで同家領として続いたと思われる(旧高旧領取調帳など)。当村には利根川の河岸場として大越河岸があり、年貢米や塩・干鰯などの回漕に利用され、盛況を呈していた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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