永谷村(読み)ながたにむら

日本歴史地名大系 「永谷村」の解説

永谷村
ながたにむら

[現在地名]鞍手町永谷

新延にのぶ村の北西に位置し、北東古門ふるもん村、西は猿田さるた峠を境に宗像郡吉留よしどめ(現宗像市)。同峠を越える赤間あかま街道が村内を横断する。永谷は長谷とも書いたが、近隣に長谷はせ村があるため、永谷の表記が用いられたという(地理全誌)。慶安年中(一六四八―五二)に博多の商人白水八郎右衛門(幽心)が当地の開発を行い、百姓を集めたことが村の始まりという(鞍手町誌)


永谷村
ながたにむら

吉河上よかわかみ庄内の一村で、現長谷ながたにに比定される。室町時代は万里小路家領。弘安七年(一二八四)七月二五日の地頭小野氏女等連署禁制(吉井家蔵法光寺文書)によると、小野氏女らは法光ほうこう寺ならびに永谷村の殺生禁断を命じており、惣村は二年を限っている。また村内で死者の後世を弔って飲む酒も一年間禁止されている。応永二二年(一四一五)九月一五日、沙弥善秀は同寺の油六斗を負担している吉河上庄内永谷村末光名の田一段の加地子を同寺に寄進した(「沙弥善秀田地寄進状」同文書)。同二七年一二月八日、惣追捕使茂泰は村内の法光寺への検断を免除している(「惣追捕使茂泰奉書」同文書)


永谷村
ながやむら

[現在地名]船引町永谷

今泉いまいずみ村の西、片曾根かたそね山の南麓に位置し、近世初期までは長井・長谷・長屋とも書いた。永禄一一年(一五六八)七月吉日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)に「六段 五百文 上下長井」とみえ、天正一四年(一五八六)一〇月一三日の熊野山新宮年貢帳(同文書)には「三段 二百五十 上長井」「三段 九十 下長井」とある。同一八年一〇月九日の熊野新宮領差出帳(片倉文書)では「長谷分」とみえ、紀州熊野新宮へ年貢を納めている。会津領から寛永四年(一六二七)三春藩領、正保元年(一六四四)幕府領と変遷、同二年から三春藩領となる。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「長屋」とみえ、高二七六石余、田丸氏の知行地


永谷村
ながたにむら

[現在地名]美里町永谷

貴志きし川北岸、福田ふくだ村の東の山中に位置し、北は西野にしの東野ひがしのの両村(現野上町)、東は津川つがわ村。南に市場いちば村がある。「続風土記」は「一の小谷にて長サ七八町許、津川の谷と東西山の尾を隔つ、其谷川福田と野中の間にて」貴志川に入ると記す。また「津川永谷名を取替て、粟と大角豆と花替た、娶入よめいりするとも永谷へゆくな、ゆけともとれと皆坂しや、帰る土産に樫団子」という俚謡を記し、山間の村で貧しかったという。


永谷村
えいたにむら

[現在地名]西吉野村大字永谷

天辻てんつじ峠と立川渡たてかわど村の間にある。江戸時代初期には立川渡村のうち。元禄三年(一六九〇)の新検高之帳(天理図書館蔵)には「立川渡村之内(永)谷村」とみえる。


永谷村
ながたにむら

[現在地名]芦北町黒岩くろいわ 永谷

吉尾よしお川最上流の三方を山に囲まれた標高約二五〇メートルの山中にあり、川に沿った谷間に長く続く村。寛永一六年(一六三九)の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)長谷村とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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