下船岡村(読み)しもふなおかむら

日本歴史地名大系 「下船岡村」の解説

下船岡村
しもふなおかむら

[現在地名]船岡町船岡

八東はつとう川と大江おおえ川の合流点付近に位置する。東は大江川を挟んで上船岡村だが、両村示は入組んでおり、当村域は上船岡村の南方北方にも広がっていた(因幡志)。西部に新庄しんじよう集落がある。中世には上・下の区別はなく船岡と総称されており、江戸時代にも上・下を冠せず一村として船岡村と称されることが多かった(在方諸事控)。江戸時代には智頭ちず街道と若桜わかさ往来とを結ぶ道が通る交通の要地で、舟運も盛んであった。

正応六年(一二九三)七月一八日の関東御教書写(野坂文書)によれば因幡国「船岡郷半分并新庄村半分地頭職」が蒙古軍降伏祈願のため安芸厳島神社に寄進されている。ただし新庄村が現在の新庄にあたるかどうかは不明。正安四年(一三〇二)新庄など四ヵ村が内大臣法眼継誉から盛俊僧都に譲られている(同年三月二〇日「継誉所領譲状案」摂津勝尾寺文書)。長禄二年(一四五八)以前に「因幡国大江郷船崗東西」などは京都南禅寺栖真院領となっていたが、同年には山名治部少輔(豊時か)押領し不知行となっていた(「蔭涼軒日録」同年八月四日条)。天文一四年(一五四五)二月吉日の広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)社家肥塚家の檀那村付帳には「いなは舟岡ノ内」として「いのはな七郎兵衛宿」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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