日本歴史地名大系 「下船岡村」の解説
下船岡村
しもふなおかむら
正応六年(一二九三)七月一八日の関東御教書写(野坂文書)によれば因幡国「船岡郷半分并新庄村半分地頭職」が蒙古軍降伏祈願のため安芸厳島神社に寄進されている。ただし新庄村が現在の新庄にあたるかどうかは不明。正安四年(一三〇二)新庄など四ヵ村が内大臣法眼継誉から盛俊僧都に譲られている(同年三月二〇日「継誉所領譲状案」摂津勝尾寺文書)。長禄二年(一四五八)以前に「因幡国大江郷船崗東西」などは京都南禅寺栖真院領となっていたが、同年には山名治部少輔(豊時か)が押領し不知行となっていた(「蔭涼軒日録」同年八月四日条)。天文一四年(一五四五)二月吉日の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報