たい‐こう ‥カウ【大江】
[1] 〘名〙 大きな川。
※
太平記(14C後)二九「薪を負ふて焼原を過ぎ、雷を戴いて大江を渡すが如く恐れき」
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デジタル大辞泉
「大江」の意味・読み・例文・類語
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大江
おおえ
[現在地名]南有馬町大江
南有馬村の東部中ほどに位置し、南部は広い入江を形成する。中世には海に臨んで原城が築かれていた。一五七六年(天正四年)有馬に滞在していたイエズス会のコエリヨ神父がウラタから乗船して口之津(現口之津町)に向かおうとしたところ、オオエOyeの人々が受洗を希望してきたものの、あまりの疲労にその要求に応じるのを先に延ばすことを求めたが、陸上では多くの仲間らが、海上ではその持船で司祭を取囲み、洗礼を受けるまでは出発に同意しないというので、村に仏僧をとどめないこと、および全員がキリシタンになることを条件として授洗したという(フロイス「日本史」)。
大江
おおえ
勢多橋の東、東海道沿いに位置し、史料上は北の大萱とともに勢多郷の内としてみえ、大江のほか大江保・大江庄などとも出る。交通の要所で、「大江宿」の存在も知られ、軍事面でも重要な位置を占めたことは大萱と同様。「後鳥羽院宸記」建保二年(一二一四)四月一五日条に「大江」とみえ、日吉祭の供御備進に端を発する争いで三井寺衆徒が当地辺りに出会い、山門所司・公人に矢を射掛けている。寛喜三年(一二三一)伊勢奉幣のための駅家雑事が「山門領大江保」に賦課されている(「民経記」同年一〇月九日条)。同保は延暦寺の道祐法印(九条兼実の甥)の所領であったが、天福元年(一二三三)九月に没した藻壁門院(兼実の曾孫)の菩提を弔うために道祐より法華堂に寄進されて九条道家(藻壁門院の父)の所領となり、建長二年(一二五〇)子の一条実経に譲られた(「九条道家初度惣処分状」九条家文書)。
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大江
おおえ
京都府北西部、加佐郡(かさぐん)にあった旧町名(大江町(ちょう))。現在は福知山市(ふくちやまし)北東部の一地区。旧大江町は1951年(昭和26)河守(こうもり)町が河守上、河西(かわにし)、河東、有路上(ありじかみ)、有路下の5村を編入して成立。2006年(平成18)福知山市に編入。由良(ゆら)川が貫流し、北部には大江山がそびえる。京都丹後鉄道宮福線が通じ、国道175号が走る。江戸時代には福知山と河口の由良(宮津市)とを結ぶ由良川の水運が栄え、その中継地であった。旧町域の大部分が山地で、水田は少ないが、「えびいも」「堀川ごぼう」などの京都伝統野菜の栽培が盛んで、養鶏、酪農も行われる。宮川沿いに内宮(ないく)、外宮(げくう)という集落があり、伊勢(いせ)に遷座する以前は皇大神宮が置かれていたと伝えられ、俗に元伊勢とよばれる。天田内(あまだうち)にある豊受(とようけ)大神社(外宮)の社殿は伊勢神宮と同じく神明(しんめい)造である。
[織田武雄]
『『大江町史』(1984・大江町)』
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大江
おおえ
京都府北西部,福知山市北部にある旧町域。由良川中流域にある。 1951年河守町,河守上村,河西村,河東村,有路上村,有路下村が合体し大江町が成立。 2006年福知山市に編入。北に酒呑童子の伝説などで知られる大江山がそびえる。中心集落の河守はかつて由良川の河港として繁栄。由良川沿いの狭い平地を除き,ほとんどが山地で覆われる。養蚕,酪農,養鶏のほか,小規模ながら製材や綿織物工業も行なわれる。福知山と宮津を結ぶ陸上交通の要地。かつて由良川沿岸ではしばしば水害が起こった。
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