船岡村(読み)ふなおかむら

日本歴史地名大系 「船岡村」の解説

船岡村
ふなおかむら

[現在地名]協和町船岡

近世には河辺郡に属し、南は仙北郡との郡境をなした。船岡川に沿った細長い村で、西は舟沢ふなさわ村、南はさかい村に接する。

天正一六年(一五八八)秋田氏と小野寺氏が戦った時に、舟岡川の地名や「舟岡迄馬を早めて追来る」の記述がある(奥羽永慶軍記)。慶長二年(一五九七)、西嶋又一郎あての秋田太郎実季黒印書(秋田藩家蔵文書)に「木千挺、於舟岡山令扶助事、川役不可有異儀者也」と、杉木材の扶助がみえる。同六年の秋田実季侍分限(秋田家文書)に秋田兵右衛門代官所の支配として「百廿八石 同 舟岡村」とある。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図では、舟岡村六二二石とあり、ほかに村の東北二〇町に無高で舟岡のうち庄内村とある。庄内村は享保年間(一七一六―三六)の「六郡郡邑記」に船岡村の枝郷とみえ、船岡川の上流にあたり、一七世紀前半には林業経営の拠点的役割を果したと推定される。


船岡村
ふなおかむら

[現在地名]山都町小舟寺こふなじ

阿賀川の北岸に位置し、同川と村の西を南流するいち川との合流地点にある。舟岡とも記した。北東は小布瀬原こぶせはら村、北は寺内てらうち村、西は一ノ戸川を挟んで木曾きそ村、南西は阿賀川を挟んで河沼郡河原田かわらだ村。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録には舟岡とみえ、小布瀬郷との注があり、高九一石余。享保一八年(一七三三)の木曾組手鑑(真部家文書)では高二五〇石余(うち新田六三石余・新畑五石余)、本田畑は免四ツ六分五厘で、田方八町余・畑方一四町三反余、家数三一(竈数三二)・人数一五三、雑駄二〇。なお同一五年の木曾組諸役等書上帳(五十嵐家文書)によると山役銀一匁三分一厘・川役銀六匁七分五厘・紙役中判八帖、漆木役三七八本二分などを負担していた。


船岡村
ふなおかむら

[現在地名]南国市おおそね

香長かちよう平野の中央部、北と東は大村、西は伊達野いたちの村と境を接する新田村。「土佐州郡志」は大郷の小村と記す。おおそねの住吉野すみよしのともよばれる。元禄郷帳に「船岡村新田」とみえ、高二四三石余。開発年代・開発者とも不明。寛保郷帳では戸数二六、人数一三七、馬一四、牛七。明治二年(一八六九)には二六町二反三二代五歩(我等の郷土大篠村)。船岡山は「土佐州郡志」に「多松樹」とある。山の南側には旧物部ものべ川ともいう河道跡がみられる。


船岡村
ふなおかむら

[現在地名]可児市下恵土しもえど

上屋敷かみやしき村の西、可児川北岸にある。慶長郷帳などには(荏)上下と一括される。徳野藩領。岩瀬文庫本正保郷帳では下江渡しもえど村のうち。元禄郷帳に村名がみえる。承応二年(一六五三)以後は幕府領。文化七年(一八一〇)の村明細帳によれば田一三町六反余・畑一一町二反余、家数三三(高持二九・水呑四)・人数一一七、馬二。立会いの用水堰四ヵ所、溜池一ヵ所がある。伏見ふしみ宿(現可児郡御嵩町)への助郷高六九〇石で、おそらく上屋敷・沢渡さわたり両村分を含む(元禄七年「伏見宿・太田宿助郷帳」奥村文書)


船岡村
ふなおかむら

[現在地名]本荘市子吉こよし 船岡

本荘ほんじよう城下町西南部、西に船岡台を負い、東に耕地が開ける。東南は葛法くずのり村、西南は沼田ぬまた(現由利郡西目町)、北は藤崎ふじさき村に接する。近世には本荘藩子吉郷に属する。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に村名が記され、元禄一一年(一六九八)の出羽国由理郡之内村高帳に舟岡村として四一七石二斗五升九合とある。明治五年(一八七二)の旧高旧領取調帳に六八〇石余とある。


船岡村
ふなおかむら

明治初年の「新撰陸奥国誌」の八幡はちまん村の項に「旧船岡と云ふ支村あり、今は廃し菜畷となる」とあり、位置の確定はできず、天保郷帳にも記載がない。「平山日記」享保一二年(一七二七)に「下四船岡村」とあり、村位は下で免は四ツ成であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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