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下金沢村(読み)しもかなさわむら

日本歴史地名大系 「下金沢村」の解説

下金沢村
しもかなさわむら

[現在地名]会津坂下町へい

周囲は耕地で、西は矢目やのめ村、東の上金沢村とは「田圃相交はりて地界を分ち難」い状態であった(新編会津風土記)本村北東三町に端村の橋本はしもとがあり、栗村くりむら堰に架かる橋があるための地名である。天正年間(一五七三―九二)までは上・下に分れず、金沢村を称し、「会津旧事雑考」所収天喜五年(一〇五七)六月三日の八幡宮神役目録に「金沢日度矢鏑流馬はとしかへ」とある。元亀元年(一五七〇)三月日の栗村堰用水契状案(新編会津風土記)によれば、栗村堰は金沢村地内から取水しており、水下村々は金沢村・矢目村に対し永久用水証文を出したが、宛名は金沢村の美濃殿・伊勢殿となっている。


下金沢村
しもかなざわむら

[現在地名]新津市東金沢ひがしかなざわ

阿賀野川能代のうだい川の氾濫原に位置し、北は大安寺だいあんじ村、南東は上金沢村。寛永八年(一六三一)比企某が満願寺まんがんじ村の荒地を開発し、当時は下興野しもごや新田と称したと伝える(皇国地誌)が、元和元年(一六一五)の開発とする説もある(中蒲原郡誌)正保国絵図に村名があり、新発田藩領。文政五年(一八二二)の郡中高帳(遠藤家文書)によれば満願寺組に属し、村高三四三石一斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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