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世田谷城 せたがやじょう

日本の城がわかる事典の解説

せたがやじょう【世田谷城】

東京都世田谷豪徳寺にあった平山城(ひらやまじろ)。東京都指定文化財。一帯を領有していた吉良氏の居城。足利氏とは同族の吉良氏は上野国飽間郷(群馬県)を所領としていたが、1366年(貞治5)に吉良治家が鎌倉公方足利基氏から世田谷郷を与えられ、この地に居住するようになった。治家は応永年間(1394~1426)にこの地に居館を築いたが、これが同城の起源である。その後、治家の子の成高の代に本格的な城郭として整備されたと考えられている。成高は太田道灌とも誼を通じ、1477年(文明9)に豊嶋氏が蜂起した際には、道灌とともに豊嶋氏と戦った。次の頼康の代には北条氏の武蔵侵攻が本格化したが、頼康は北条氏綱の娘を妻とし、次の代の氏朝も北条氏康の娘を娶るなど、北条氏との関係を深めた。北条氏は名門吉良氏を縁戚とすることで権威を高める意図があったと考えられている。吉良氏の居城は北条氏により蒔田城(横浜市南区。蒔田御所、吉良氏館とも呼ばれる)へと移され、世田谷城は北条氏直轄の城となった。1590年(天正18)の小田原の役で、世田谷城は豊臣秀吉の軍勢によって攻略され、間もなく廃城となった。戦後、吉良氏は秀吉により領地を没収されたが、江戸時代には蒔田氏を名乗り、高家として上総1125石の旗本となった。世田谷城は現在の豪徳寺付近に本丸があり、その城域は世田谷城址公園付近まで拡がっていた。同公園内や豪徳寺住宅脇に空堀や土塁の遺構が残っている。なお、豪徳寺は治家から数えて5代目の世田谷城主吉良政忠が伯母のために城内に建立した弘徳院をその前身としている。東急世田谷線上町駅から徒歩約10分。

出典|講談社日本の城がわかる事典について | 情報

世界大百科事典内の世田谷城の言及

【世田谷】より

…現在,世田谷1~4丁目の町名がある。室町時代に足利氏一族の吉良氏の所領となり,世田谷城(現,世田谷区豪徳寺)が築かれた。近世には彦根藩井伊氏が領有し,代官大場氏が支配したが,上町に代官屋敷が残っている。…

※「世田谷城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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