白河藩(読み)しらかわはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「白河藩」の意味・わかりやすい解説

白河藩
しらかわはん

陸奥(むつ)国白河(福島県白河市)周辺を領有した藩。近世初期は会津領主蒲生(がもう)・上杉両氏が白河城代を置いて支配、1627年(寛永4)丹羽長重(にわながしげ)が棚倉(たなぐら)から10万0700石で就封し成立した。29年から32年にかけて、丹羽氏は白河城の修築、城下町の整備を行ったが、2代光重は43年二本松に移封となった。以後、奥州街道の重要拠点として、幕府は譜代(ふだい)の名門大名を配置した。上野(こうずけ)国(群馬県)館林(たてばやし)から松平(まつだいら)(榊原(さかきばら))忠次、49年(慶安2)本多忠義(ただよし)、81年(天和1)松平(奥平(おくだいら))忠弘、92年(元禄5)松平(結城(ゆうき))直矩(なおのり)、1742年(寛保2)松平(久松(ひさまつ))定賢(さだかた)、1823年(文政6)阿部正権(まさのり)と頻繁に交替した。

 1650~51年(慶安3~4)本多忠義によって領内総検地が行われ、新たに3万7000石余を打ち出すという過酷なものであった。松平忠弘の時代は藩内が2派に分かれて抗争し、将軍徳川綱吉(つなよし)から藩政不行届で5万石減封のうえ山形に移された。結城松平時代も藩内抗争があり、1720年(享保5)には直矩のあと基知(もとちか)、義知(よしちか)と在封したが、やはり大規模な農民一揆(いっき)が発生した。

 1742年越後(えちご)高田から入部した松平(久松)氏は、2代定邦(さだくに)のとき将軍吉宗(よしむね)の孫にあたる定信(さだのぶ)を田安家から迎えて嗣子(しし)とした。定信は1783年(天明3)奥羽大飢饉(ききん)のさなかに封を継ぎ、領民に質素倹約を令するとともに、江戸から救急食糧を購入し領民に配るなど救済に努めた。田沼意次(おきつぐ)失脚後、老中首座として寛政(かんせい)の改革を断行した。1793年(寛政5)老中を辞任した定信は、再度白河藩の藩政改革を行い、商品作物の生産を奨励し、白河馬市などの市場創設にも努力した。またガラス、陶器、武具などの工芸品を製作させ、藩士の副業に毛織物ラシャ)を導入するなど殖産政策をとった。また1791年(寛政3)立教館を創設、99年白河と須賀川(すかがわ)に敷教舎(ふきょうしゃ)を建て、庶民の教育も行った。広瀬典(てん)などの学者に『白河風土記(ふどき)』『白河古事考』などの地誌を編纂(へんさん)させ、自らも『集古十種』などを著した。1823年松平定永のとき桑名(くわな)に移封、かわって武蔵忍(むさしおし)から阿部氏が入部し幕末に至った。阿部氏は、正権のあと、正篤(まさあつ)、正瞭(まさあきら)、正備(まさかた)、正定(まささだ)、正耆(まさひさ)、正外(まさと)、正静(まさきよ)と続いたが、1867年(慶応3)棚倉移封となり、翌年また白河に復帰した。戊辰(ぼしん)戦争においては奥羽列藩同盟軍と西軍との間で激戦が展開され、68年5月1日落城した。69年(明治2)8月、民政取締所にかわって白河県となり、二本松県を経て福島県に併合された。

[誉田 宏]

『『物語藩史 2』(1976・新人物往来社)』

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藩名・旧国名がわかる事典 「白河藩」の解説

しらかわはん【白河藩】

江戸時代陸奥(むつ)国白河郡白河(現、福島県白河市)に藩庁をおいた藩で、初め外様(とざま)藩、のち譜代(ふだい)藩、親藩(しんぱん)。藩校は立教館、のち修道館。白河には古代に白河関(しらかわのせき)が設けられ、奥羽への出入口として要衝の地となっていた。近世初期には会津の領主蒲生(がもう)氏や上杉氏が白河城代をおいていた。1627年(寛永(かんえい)4)に丹羽長重(にわながしげ)が棚倉(たなぐら)藩から10万石で入封(にゅうほう)、白河城の改修や城下町の整備を行ったが、43年に丹羽氏は二本松藩へ移封(いほう)、代わって上野(こうずけ)国館林(たてばやし)藩の松平(榊原(さかきばら))忠次(ただつぐ)が14万石で入封、以後幕末まで、本多氏2代、松平(奥平)忠弘(ただひろ)、松平(結城(ゆうき))氏3代、松平(久松)氏4代、阿部氏8代と、10万石から15万石で譜代や家門(かもん)が次々と交替した。この間、天明(てんめい)の飢饉最中の1783年(天明3)に藩主となった松平定信(さだのぶ)は、領民救済や農村復興に力を注ぎ、藩を再建。87年には田沼意次(たぬまおきつぐ)失脚後の幕府で老中(ろうじゅう)首座となり、寛政(かんせい)の改革を推し進めた。最後の阿部氏は、1866年(慶応2)に隣の棚倉藩に移封された。戊辰(ぼしん)戦争では奥羽越(おううえつ)列藩同盟と新政府軍との激戦地となり、白河城は落城。以後、明治政府直轄地となり、69年(明治2)に白河県が設置された。次いで71年の廃藩置県により、二本松県を経て福島県に編入された。

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百科事典マイペディア 「白河藩」の意味・わかりやすい解説

白河藩【しらかわはん】

陸奥(むつ)国白河に藩庁をおいた。藩主は外様(とざま)の丹羽氏の後,奥州道中の拠点として重視され,譜代(ふだい)の松平(榊原)氏・本多氏・松平(奥平)氏,家門(かもん)の松平(越前)氏・松平(久松)氏,譜代の阿部氏と変遷。領知高は陸奥国白河・石川など4郡で約10万石〜15万石。18世紀後半,藩主松平定信(さだのぶ)は天明飢饉(てんめいききん)に際し領民救済・殖産興業策などを実施し藩再建に努めた。幕閣では老中として寛政(かんせい)改革を断行。戊辰(ぼしん)戦争では奥羽越(おううえつ)列藩同盟軍の拠点となった。
→関連項目宇下人言陸奥国

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改訂新版 世界大百科事典 「白河藩」の意味・わかりやすい解説

白河藩 (しらかわはん)

陸奥国(福島県)白河郡白河に藩庁を構えた藩。1627年(寛永4)丹羽長重が10万石で入部,白河城の大改修と城下町の整備をおこない,近世城下町として面目を一新した。43年松平(榊原)忠次が14万石で就封し,以後幕末まで奥州道中の重要拠点として,49年(慶安2)本多,81年(天和1)松平(奥平),92年(元禄5)松平(結城),1741年(寛保1)松平(久松),1823年(文政6)阿部氏と領主が交替,石高は10万石から15万石で譜代名門大名が配置された。1651年本多忠義の総検地によって藩体制が確立,1716年(享保1)から36年(元文1)には農民一揆,家中騒動が発生した。天明飢饉の渦中に藩主となった松平定信は,領民救済・農村復興・殖産興業策を実施して藩の再建をはかり,また87年(天明7)老中首座に登用され寛政改革を断行した。戊辰戦争では,奥羽越列藩同盟軍の拠点として激戦が展開された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「白河藩」の意味・わかりやすい解説

白河藩
しらかわはん

江戸時代,陸奥国白河地方 (福島県) を領有した藩。寛永4 (1627) 年に丹羽 (にわ) 長重が 10万 700石で旧会津藩領のこの地に入封したのに始り,同 20年以降榊原氏 14万石,本多氏 12万石,松平 (奥平) 氏 15万石,松平 (結城) 氏 15万石を経て寛保1 (1741) 年には松平 (久松) 氏 11万石が入封し,次いで文政6 (1823) 年から慶応2 (66) 年まで阿部氏が 10万石で在封,のち二本松藩丹羽氏領となり,まもなく廃藩。親藩,譜代の大名が配置された要衝であったが,歴代の藩主のなかでも天明3 (1783) 年に藩主となった松平定信は第8代将軍徳川吉宗の孫で,天明の飢饉を乗越え,その功によって老中に登用され,いわゆる寛政の改革を断行して著名である。

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デジタル大辞泉プラス 「白河藩」の解説

白河藩

陸奥国、白河(現:福島県白河市)周辺を領有した藩。丹羽長重、榊原忠次、本多忠義などが入封。

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世界大百科事典(旧版)内の白河藩の言及

【阿部氏】より

…領知高は94年に10万石となる。1823年(文政6)に至り陸奥白河に転じ(白河藩),66年(慶応2)同国棚倉に移封。68年(明治1)奥羽列藩同盟に加わったため6万石に減知。…

※「白河藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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