中内田村(読み)なかうちだむら

日本歴史地名大系 「中内田村」の解説

中内田村
なかうちだむら

[現在地名]菊川町中内田

月岡つきおか村・耳川みみがわ村の西に位置し、菊川支流の上小笠かみおがさ川が流れる。北西方に上内田村(現掛川市)、南東方に下内田村があり、三村域は中世には内田庄(郷)に含まれていた。南端部を秋葉街道(信州街道)が通る。村は広域元禄郷帳ではもり村・三門みかど(御門)村・平尾ひらお村・政所まんどころ村・杉森すぎもり村の五村に分けて高付されている。平尾村は徳治二年(一三〇七)六月四日の遠江守護大仏宣時下知状写(内田文書)に「平尾村地頭」とみえる。前欠で詳細は不明だが、平尾村加徴米をめぐる成仏と内田致朝との相論と思われ、致朝が勝訴して正応五年(一二九二)以来の加徴米を得ている。平尾村は内田氏の本拠地下内田の北隣にあたる。成仏は寛元年間(一二四三―四七)に平尾村地頭に還補されたらしい。次いで「家忠日記増補追加」によると、永禄一一年(一五六八)末頃、武田氏臣下の信濃秋山信友は久野宗能が徳川方についたため、久野くの(現袋井市)を攻めるため平尾村に陣を布いたとされる。


中内田村
なかうちだむら

[現在地名]益田市内田町

高津川下流、支流白上しらかみ川の合流点にあたり、東は飯田いいだ村、西対岸は向内田むこううちだ村。江戸時代の領主変遷高津村と同じ。元和三年(一六一七)の竹村丹後守引渡証文(亀井家記稿本)に内田村とみえ、まだ向内田村と一村であった。古高一〇二石余、寛永一四年(一六三七)の検地高一一八石余(万手鑑)。元和年間に虫追むそう村のライコウから高津川を分流させ、飯田村の南部を回って、下飯田でさらに高津川へ合流させたため飯田村と分断された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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