日本歴史地名大系 「飯田村」の解説
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
- 広島県:東広島市
- 飯田村
年欠の大内政弘預ケ状(天野毛利文書)によると「東西条内飯田村百貫地弘顕跡」が天野讃岐守に預けられている。大永三年(一五二三)には財満孫太郎・新右衛門の知行地であったが、やはり一〇〇貫の地とされている(同年八月一〇日付「安芸東西条所々知行注文」平賀家文書)。弘治年間(一五五五―五八)以降、毛利氏より当村内に給地を与えられた者として、飯田村半分を領した天野隆綱(「閥閲録遺漏」所収毛利筑後家文書)、五貫五〇〇目を領した桜井英之(「閥閲録」所収桜井甚兵衛家文書)、
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
- 千葉県:佐倉市
- 飯田村
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
- 栃木県:小山市
- 飯田村
飯田村
はんだむら
飯田村
いいだむら
- 群馬県:太田市
- 飯田村
飯田村
いいだむら
- 秋田県:大曲市
- 飯田村
南は
享保八年(一七二三)の仙乏郡郡境本村支村御高共調帳(秋田県庁蔵)に高は新田六九七石七斗七升九合(当高五八一石四斗八升三合)とあり、家数は二五軒、支郷
飯田村
いいだむら
東郷村の東に位置し、飯田川が南流して入江に注ぐ。弘治三年(一五五七)四月七日の惣社五月五日祭礼用注文写(億岐家文書)に
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
- 埼玉県:大宮市
- 飯田村
荒川筋の旧河道の南に位置し、村の中心部は自然堤防上にある。南部の後背湿地の水田が
飯田村
いいだむら
飯島村の南東、沖積原の微高地に街村状に立地する。東は谷地を開墾した広大な田地で、
享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に三一軒とあり、文化(一八〇四―一八)頃の「六郡郷村誌略」にも「高二百二十三石一斗、免五ツ五歩、田水堤
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
- 島根県:江津市
- 飯田村
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
- 佐賀県:鳥栖市
- 飯田村
貞和七年(一三五一)の足利直冬安堵状(大宰府神社文書)に「一所肥前国飯田村田畠八町」とある。村には条里の遺構がみられ、その基線が国境となって小溝が南北に走っている。秋光川東岸に字
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
- 栃木県:小山市
- 飯田村
鬼怒川と
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
飯田村
いいたむら
- 栃木県:佐野市
- 飯田村
飯田村
いいだむら
- 茨城県:笠間市
- 飯田村
飯田川沿いにあり、東は
飯田村
いいだむら
- 栃木県:宇都宮市
- 飯田村
東は
飯田村
いいだむら
- 茨城県:下館市
- 飯田村
飯田村
いいだむら
飯田村
いいだむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報