飯田村(読み)いいだむら

日本歴史地名大系 「飯田村」の解説

飯田村
いいだむら

[現在地名]高岡町飯田

内山うちやま村の東、赤江あかえ(大淀川)北岸にあり、北は嵐田あらしだ(現国富町)。飯田川が南東流して赤江川に入る。内山村の内に飛地かりみねがある。薩摩街道が南を西進し、高岡の麓へと向かう。東方の字ひがしさこには嘉慶元年(一三八七)伊東肥州により飯田城が築かれた(高岡名勝志)。応永年間(一三九四―一四二八)穆佐むかさ城の島津久豊が兄島津元久と対立した際、久豊とそれを援助する妻の父伊東祐安の率いる大軍が飯田、あや(現綾町)久津良くつらなどの要害の地に陣したという(「島津元久譜」旧記雑録、「西藩野史」など)。永享四年(一四三二)島津氏が都於郡とのこおり(現西都市)六野原むつのばる(現国富町)などに攻め入り、伊東氏は同年七月一四日河骨かわぽねで島津軍と戦い(河骨合戦)、これを撃退、飯田城・平賀ひらが城を手中にし、ここに落合七郎左衛門尉を入れたという。河骨は当地南西にある。同六年の桑津留合戦後島津・伊東両氏は和睦し、飯田は島津方に渡された。だがその後再び伊東方に転じたらしい。文明一六年(一四八四)島津氏一族間の内訌に端を発した飫肥おびをめぐる争いのなかで、櫛間くしま(現串間市)の伊作久逸の要請で伊東氏が飫肥に出陣した際、飯田衆は伊東祐国の弟祐邑の軍勢に付けられている(日向記)。戦国期の伊東氏の神社領支配の内容を示す弘治二年(一五五六)六月吉日の土田帳写(予章館文書)によれば、飯田一二町のうち一反が都於郡東隅領とされ、二反(うち一反半は同年不作)が飯田の早馬はやめ大明神領、五反が本庄ほんじよう八幡(現国富町)領、五反が高浜粟野たかはまあわの大明神領とされている。


飯田村
いいだむら

[現在地名]森町飯田

鴨岡かもおか村の南にあり、太田おおた川左岸の丘陵上に集落、同川右岸に耕地が広がる。南は山梨やまなし村・市場いちば(現袋井市)、西は天方あまがた村・田中たなか村。周知すち郡に属する。文永二年(一二六五)二月七日の遠江国三代起請地并三社領注文案(教王護国寺文書)にみえる京都蓮華王院領飯田庄の遺称地。弘治三年(一五五七)二月一三日の今川義元判物(蓮華寺文書)によれば、山内通輔が蓮華寺に寄進した「飯田庄下飯田大滝田地弐段」は、山内三郎によって押領されていた。また永禄七年(一五六四)九月二七日、今川氏真は当地観音寺(現廃寺)の寺領なか村・鎮守田五町を安堵し、この寺領は弘治三年の検地の際に祈願寺領として定めたもので、たとえ飯田惣郷の領主が替わっても干渉は許さないと定めた(「今川氏真朱印状」観音寺文書)。永禄一一年一二月二六日、徳川家康が二俣ふたまた(現天竜市)防備を命じて鵜殿三郎らに宛行った所領のなかに飯田がみえ(「徳川家康判物写」譜牒余録後編)、元亀三年(一五七二)一一月二日、武田信玄が秋葉寺(現春野町)別当に宛行った所領のなかにも飯田の内二町があった(「武田信玄判物写」古簡編年)


飯田村
いいだむら

[現在地名]東広島市八本松はちほんまつ町飯田

深堂ふかどう(五九七・八メートル)の南に広がる約一・五キロ四方の盆地(標高二五〇メートル前後)の大半を村域とするが、南から中央部に楔形に原飯田はらいいだ村がある。深堂山から発する深堂川が村の西部と南部を流れ、北部を東南流する清滝きよたき川とともに米満よねみつ村で黒瀬くろせ川に注ぐ。

年欠の大内政弘預ケ状(天野毛利文書)によると「東西条内飯田村百貫地弘顕跡」が天野讃岐守に預けられている。大永三年(一五二三)には財満孫太郎・新右衛門の知行地であったが、やはり一〇〇貫の地とされている(同年八月一〇日付「安芸東西条所々知行注文」平賀家文書)。弘治年間(一五五五―五八)以降、毛利氏より当村内に給地を与えられた者として、飯田村半分を領した天野隆綱(「閥閲録遺漏」所収毛利筑後家文書)、五貫五〇〇目を領した桜井英之(「閥閲録」所収桜井甚兵衛家文書)成仏じようぶつ名三貫・光守みつもり名一一貫五〇〇目を領した児玉就秋(同書所収児玉弥七郎家文書)、光守名内一貫目を領した財満孫八郎(同文書)、竹垣内分四名二〇貫目・有末竹垣作職を領した財満赤法師丸(「譜録」所収財満久張家文書)らの名が知られる。


飯田村
いいだむら

[現在地名]小布施町飯田

東は小布施村と栗林で境し、南は新田しんでん小島こじま(現須坂すざか市)まつ川境、西は大島おおじま村と耕地境、北は山王島さんのうじま村と耕地境、小布施扇状地右扇側扇端部で、少量の土師・須恵の土器の小片が散在する。

初見は、諏訪御符礼之古書の康正三年(一四五七)に「左頭、狩田、修理亮秀貞、飯田、御符之礼五貫六百文、使一貫文、高梨知行、狩田御教書之礼、飯田秀貞三貫三百文」とある「飯田」であろう。同書寛正二年(一四六一)花会の件に、「狩田、代官飯田三郎左衛門秀貞、御符之礼三貫三百文(中略)滋野しげの飯田三郎左衛門(秀)貞」がある。


飯田村
いいだむら

[現在地名]高松市飯田町

鶴市つるいち村の南に位置し、東は香東こうとう川、西は本津ほんづ川に限られる。古代の香川郡飯田郷(和名抄)の遺称地。同郷は中世にも存続、建長二年(一二五〇)一一月日の九条道家初度惣処分状(九条家文書)によれば、道家が創建した京都東福寺の開山円爾弁円の住房、同寺普門院の料所に充てられている。道家は同郷を立庄するよう書置いているが、立庄された徴証はない。嘉元四年(一三〇六)の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)の讃岐国公領分にも郷名がみえ、知行者は宝寿丸とある。正平七年(一三五二)八月三〇日、同郷公文職が野川太郎兵衛尉・同二郎兵衛尉に宛行われた(「後村上天皇綸旨案」野川文書)


飯田村
いいだむら

[現在地名]佐倉市飯田・飯田台いいだだい

大佐倉おおさくら村の北西、印旛いんば沼南岸に位置。中世は印東いんとう庄のうち。観応二年(一三五一)三月五日の慈眼寺聖観音板書銘写(藤崎家文書)に「印旙郡印東庄 飯田郷 円勝寺聖観音奉図画施主 円城寺左衛門四郎」とある。また応永一七年(一四一〇)の香取造営料足納帳(静嘉堂文庫)に「いゝ田分」として円城寺四郎の名がみえる。下山しろやまに飯田城跡があったが消滅した。正保三年(一六四六)年貢割付状(佐倉市保管文書)に佐倉領飯田村とあり、高四二六石余。寛永一九年(一六四二)に佐倉藩領となり(「年貢割付状」同文書)、万治三年(一六六〇)から寛文元年(一六六一)にかけて幕府領のほかは佐倉藩領。


飯田村
いいだむら

[現在地名]下田村飯田

五十嵐いからし川右岸段丘上から沖積地にかけて立地し、新津・村松むらまつ丘陵に沿って北西に延びる。南はなか村。現在上飯田・中飯田・下飯田の三行政区からなる。五十嵐川右岸段丘上、標高四〇メートルに芹沢せりざわ遺跡がある。縄文後期初頭と奈良時代末期の複合した集落遺跡で、蛇紋岩製の有樋玉や分銅形磨製石器などが出土している。

正保国絵図に村名がみえ、高二五〇石余。正保(一六四四―四八)初年の物成高を記した「初免石」(「村松小史」渡辺芳江氏蔵)では四七四石四斗余・家四九戸。寛文(一六六一―七三)以後鹿峠組に属した。


飯田村
いいだむら

[現在地名]仙台市沖野おきの五―六丁目・飯田・上飯田かみいいだ下飯田しもいいだ

今泉いまいずみ村の北西、広瀬川と名取川の合流点近くの左岸に立地し、全体に平坦地で宮城野みやぎの海岸平野の一部である。村域は東西に長く延び、西部を上飯田、東部を下飯田と通称している。南は日辺につぺ村。荒地や湿地だった当地に開発の手が加えられたのは寛永二年(一六二五)のことで、水沢みずさわ(現岩手県水沢市)の伊達(留守)宗利は下飯田地区の開発を命じ、家臣の小野常勝以下五〇余人が墾田経営にあたり、うち三六人が墾田の中央に集落を構えた(留守家分流系図「仙台市史」所収)


飯田村
いいだむら

[現在地名]益田市飯田町

高津川とその支流白上しらかみ川に挟まれた益田平野西端に位置し、東は須子すこ村、北は高津村。地名のいわれは速飯彦命の御飯田に由来するという(石見八重葎)。飯多とも記す。江戸時代の支配の変遷は持石もちいし村と同じ。古高三七九石余、寛永一四年(一六三七)の検地高三七二石余(万手鑑)。正保国絵図に飯田とあり、高三七九石余。元和三年(一六一七)津和野藩虫追むそう村のライコウから高津川を分流させ、当村北部を流し、下飯田でさらに高津川へ合流するほり川を計画した。


飯田村
いいだむら

[現在地名]久留米市善導寺町飯田ぜんどうじまちいいだ

筑後川左岸、日田街道の北に位置する。上三郡絵図では飯田村の屋敷地と村内の善導寺門前の屋敷地は区分され、耕地は周辺に飯田分・善導寺分・勿体島もつたじま分・千光せんこう寺分が入組み散在する。幕末の筑後川絵図(木村家蔵)によると筑後川右岸の大城おおき舟端ふなばた(現北野町)に渡小屋があり、左岸の渡場赤岩あかいわから真南に善導寺門前が描かれている。天正三年(一五七五)一〇月五日写の草野家居屋敷注文(草野文書/久留米市史7 資料編古代・中世)に「飯田 十二丁」とみえる。


飯田村
いいだむら

[現在地名]豊科町大字高家たきべ 飯田

あずさ川左岸自然堤防上にある。「信府統記」によれば、村の西側を享保年代(一七一六―三六)中曾根なかぞね(旧梓川河床)が流れており、川に囲まれた洲のような地形をなしている。初見は文明八年(一四七六)下諏訪春秋両宮御造宮帳で、籾一八俵三升(三貫六〇〇文)を所役している。

中曾根川流域に、流れ・押流れ・西流れの地字のあること、江戸時代に一二〇石(村高の約二割)の荒地引のある(安政二年安曇筑摩両郡村々明細調書上帳)ことは、かつて梓川による洪水のあったことを物語るものであろう。


飯田村
いいだむら

[現在地名]豊栄町飯田、双三ふたみ三和みわ町飯田

吉原よしわら村の北西に位置し、備後国世羅郡最西端にあたる村。中央部を美波羅みはら川の支流飯田川が北東へ流れ、流域の低地部に農耕地が広がる。飯田川と、沼田ぬた川の支流椋梨むくなし川の最上流部にあるの峠に近い水田の地下約二メートルのところから、六世紀後半から七世紀初頭と推定される須恵器の甕と木製の鋤二点が出土しており、この地方が早くから開けたことが知られる。「芸藩通志」によると禄郷ろくごう庄に属したといい、「世羅郡誌」には、上野山かみのやま(現双三郡三和町)のうちであろうと記す。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳によると村高二五八石一斗二升。


飯田村
いいだむら

[現在地名]那珂町飯田

村の中央を大子だいご街道が縦貫し、北は戸崎とざき村と鴻巣こうのす村。応永年間(一三九四―一四二八)久福きゆうふく寺の金鼓に「佐竹郡中飯田村」とみえ、六地蔵寺過去帳には「道珠飯田兵部、元亀三壬申七十五亡」「佐竹氏の臣なるべし、或は江戸氏の臣か、那珂郡飯田村より起ると云ふ」とあり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)には「いゝ田」とある。

寛永二一年(一六四四)の御知行割郷帳には剣持清左衛門ら八人の知行とみえる。


飯田村
いいだむら

[現在地名]山形市蔵王飯田ざおういいだ蔵王西成沢ざおうにしなりさわ・飯田一―二丁目

成沢村の北に位置し、りゆう山北西麓丘陵と川東岸平地に立地。北部を須川支流坂巻さかまき川が西流する。赤土坪あかつちぼに縄文後期の遺跡がある。山形城下上山かみのやまを結ぶ道が通じていた。元亀三年(一五七二)三月一七日の最上義光宛行状写(秋田藩家蔵文書)によれば、義光は飯田のうち一千刈を荻生田弥五郎に与えている。


飯田村
いいだむら

[現在地名]小山市南飯田みなみいいだ

おもい川左岸に位置し、東端を宮戸みやと川が南流する。同川の対岸は都賀つが川田かわだ(現下都賀郡野木町)、西は乙女おとめ村。天文五年(一五三六)と推定される一一月二七日の小山高朝伊勢役銭算用状写(佐八文書)に「いゝた」とみえ、小山領上郷分に属して伊勢役銭七七〇文を負担しているが、同二三年一二月二四日には古河公方足利義氏が御料所とされる当地を重臣の野田左衛門大夫に宛行っている(「足利義氏充行状」野田家文書)


飯田村
はんだむら

[現在地名]安心院町飯田

木裳きのも村の北東にある。津房つぶさ川は当地で深見ふかみ川を合せ、さらに村東端で佐田さだ川を合せる。その後津房川は当村の東から北を巻くように大きく曲流する。東は矢崎やざき村・久井田くいだ村。文明六年(一四七四)正月二六日の某下文(矢野文書)で「宇佐郡院内新開庄飯田別符」などが今小路通資に与えられ、そのうちに「七段田口寄飯田村屋敷北八郎三郎跡」がみえる。新開しんがい庄一八名の一、飯田名(別符)の遺称地で、新開庄弁分(飯田別符)も当地一帯のことという。地内に字ベブがある。なお同名を名字とする飯田氏の居城飯田城は矢崎村にある。近世の領主の変遷は古市ふるいち村に同じ。


飯田村
いいだむら

[現在地名]太田市飯田町・浜町はまちよう本町ほんちよう東本町ひがしほんちよう

小舞木こまいぎ村の西に位置し、北は太田町、西は上浜田かみはまだ村、南は飯塚いいづか村。年月日未詳の新田庄知行分目録(正木文書)によれば、鳥山式部大夫知行として飯田郷がみえ、年未詳一五世紀半ばの新田庄内岩松方庶子方寺領等注文(同文書)にも鳥山知行として飯田郷の記載がみられる。天正一二年(一五八四)六月一四日の北条氏直宛行状(原文書)で冨岡氏に宛行った新田につた領のうちに飯田とある。寛文郷帳では田方五四六石余・畑方二三三石余、館林藩領。元禄郷帳では旗本中山領などの三給。江戸後期の御改革組合村高帳でも同様に旗本領三給で、家数二四。享保一三年(一七二八)の徳川吉宗の日光社参に際して日光街道古河こが宿(現茨城県古河市)の加助郷を勤めている(「御用触継帳」岩崎文書)


飯田村
いいだむら

[現在地名]大曲市飯田・町・須和すわ町一丁目・同二丁目・さかえ町・若葉わかば町・上栄かみさかえ町・日の出ひので町一丁目・同二丁目・住吉すみよし町の各一部

南は川目かわのめ村、東は小貫高畑おぬきたかばたけ村、北は大曲村に接し、西を雄物川が北流している。

享保八年(一七二三)の仙乏郡郡境本村支村御高共調帳(秋田県庁蔵)に高は新田六九七石七斗七升九合(当高五八一石四斗八升三合)とあり、家数は二五軒、支郷笑野口えみのぐち村は三軒、下飯田しもいいだ村は二〇軒であった。寛延四年(一七五一)六月の仙北郡御鷹飼割直之覚(大曲町史資料)によれば、当高六〇九石八斗八合。


飯田村
いいだむら

[現在地名]西郷町飯田

東郷村の東に位置し、飯田川が南流して入江に注ぐ。弘治三年(一五五七)四月七日の惣社五月五日祭礼用注文写(億岐家文書)犬来いぬぐ公文などとともに飯田公文がみえる。もと東郷の内であったか。正保国絵図に村名がみえる。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、田一六四石余・一二町八反余、畑二六石余・一八町六反余。小物成は竈役面判銀(以下断りのない限り同銀)一七匁・漁請役一七匁四分・核苧五六五目役一匁五分・牛皮一枚役丁銀二匁五分・茶一七袋役二匁五分余、家数四九(百姓三六・間脇一三)のうち御役目屋敷一七、人数二六八、牛四九・馬二三、船数九。久留志くるし浜・いづ崎の沖に鰯網を敷き、ほか入江では海鼠や雑魚をとった。


飯田村
いいだむら

[現在地名]上越市飯田

高津たかつ諸村の北方にあり、村内を飯田川が流れ、西方をじゆう川が流れる。ひるこ街道が通る。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「御料所窪田扱此外六方分飯田村 上」とみえ、本納二四七石一斗二升四合二勺・縄高四一二石三斗五升五勺、家三二軒・一三二人。「府中ヨリ廿五里」とも記される。正保国絵図によると高四九七石余。天和三年郷帳では高四三六石六斗余、うち野高四斗七升五合。近世末には高田藩預所。享保年間(一七一六―三六)の質地騒動では、当村の源助・源五左衛門・作右衛門・長左衛門が質取人惣代として活動した(「頸城郡誌稿」・豊岡家文書)


飯田村
いいだむら

[現在地名]大宮市飯田・三条町さんじようまち

荒川筋の旧河道の南に位置し、村の中心部は自然堤防上にある。南部の後背湿地の水田が中野林なかのばやし村に続き、西は自然堤防の延長上に二ッ宮ふたつみや村がある。植田谷本うえたやほん・三条町・中野林・佐知川さじかわ各村内に飛地があった(「風土記稿」など)。永禄一〇年(一五六七)九月、小田原北条氏は「飯田郷」の領主・百姓中に禁制を発給し、同郷での濫妨狼藉を停止することを命じている(丁卯九月一〇日「北条家禁制写」武州文書)。慶長年間(一五九六―一六一五)に代官頭伊奈忠次の検地があり(大宮市史)、田園簿によれば高二五〇石余、反別は田二五町九反余・畑一二町七反余、関東郡代伊奈忠治領、ほかに野銭永一〇貫二〇文。


飯田村
いいだむら

[現在地名]秋田市飯島字飯田

飯島村の南東、沖積原の微高地に街村状に立地する。東は谷地を開墾した広大な田地で、上新城中かみしんじようなか村と境する。飯島村から分郷したのは永禄年間(一五五八―七〇)といわれる(飯田町内史)が、正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に飯田村の記載はない。

享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に三一軒とあり、文化(一八〇四―一八)頃の「六郡郷村誌略」にも「高二百二十三石一斗、免五ツ五歩、田水堤水不足の土地也、家居三十一戸、人百五十六口」とある。「此村田水せきにして至て水不足、夏の頃呑水に乏しく故に土崎湊より樽入れにして行く」(羽陰温故誌)とあるように、干害に苦しみ、晴天が続くと水を求めて土崎竜神つちざきりゆうじん社と長野ながの(現飯島長野)の地蔵尊に雨乞いを続けたと伝えられる。


飯田村
いいだむら

[現在地名]大和村東飯田ひがしいいだ

加波かば山西麓にあり、北は大曾根おおぞね村。中世は真壁氏の支配下に置かれ、寛喜元年(一二二九)七月一九日の将軍藤原頼経袖判下文(真壁文書)、文永六年(一二六九)二月一六日の沙弥敬念真壁時幹譲状(同文書)伊々田いいだ郷とあり、康永三年(一三四四)八月一二日の室町幕府執事高師直施行状(同文書)に「飯田」とある。慶長二年(一五九七)麦田の検地が行われ、真壁郡麦田検地帳(彰考館蔵)に「飯田村(中略)中田(中略)合二畝拾五歩、右之麦二斗五升、此内三ケ二引、残而八升三合御定納」とある。


飯田村
いいだむら

[現在地名]板柳町飯田

東は五所川原堰を境に林崎はやしざき(現南津軽郡藤崎町)に接し、西は枝川えだがわ(現枝川鶴田堰)、その西を岩木川が北流し、北は横沢よこさわ村に接する。

貞享元年(一六八四)の郷村帳に飯田村六八五・五石とあり、寛文四年(一六六四)以降の新田とされる。貞享四年の検地帳は田方四七町七歩、畑方四六町三反六畝二歩、田畑屋敷合せて九三町三反六畝九歩、村高六一〇・七〇三石、百姓七七人、郷蔵屋敷、漆木八本と記す。「平山日記」は元禄三年(一六九〇)には藤崎組に属し、村位は中と記し、享保一〇年(一七二五)小知行派の一人として飯田村高杉新五郎をあげている。


飯田村
いいだむら

[現在地名]霊山町中川なかがわ

牛坂うしざか村・瀬成田せなりた村の西、広瀬ひろせ川左岸に位置。大永五年(一五二五)一一月一一日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)伊達東根だてひがしね「いゝ田」とみえるのは当地のこととみられ、同地のうち「かきの木内在家一宇」などが「田手いはミの太方」に安堵されている。天文七年(一五三八)の段銭古帳に伊達東根のうちとしてみえる「いゝふち」は当地内に比定され、段銭は二貫八八五文。同二二年の晴宗公采地下賜録には「いゝふちしほち」の名がみえる。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高三二一石余。近世初期の邑鑑によると免三ツ、家数一三〇(役家七九、肝煎一、脇家五、数値が合わないが史料のまま)、人数五三とあるが、家数と人数の関係が不自然であり、人数のほうが実態を示すと考えられる。


飯田村
いいだむら

[現在地名]大東町飯田

あか川と支流阿用あよう川が合流する付近の西側に位置する。建長元年(一二四九)六月日の杵築大社造営所注進状(北島家文書)に「大東北南 同飯田縁所」とみえ、宝治二年(一二四八)一〇月二七日の遷宮の翌日に行われた神事のうち流鏑馬を先例どおり勤めている。康正二年(一四五六)には宝寿院(現京都市右京区の宝寿院か)領として造内裏段銭九貫六〇〇文を「雲州飯田」が納入している(造内裏段銭并国役引付)


飯田村
いいだむら

[現在地名]江津市二宮町神主にのみやちようかんぬし

高野こうや山の北麓に位置し、東は神主かんぬし村、西は宇屋川うやがわ村。元和五年(一六一九)の古田領郷帳には飯田村の表示はなく、神主村・(神村)とともに津野つの村を構成していた。正保四年(一六四七)の古田領郷帳では「都野村ヘ入ル」として飯田村の名があり、高一六二石余、免五ツ四歩。天保郷帳では高一八四石余。高野山北麓では早くから鉄穴流しによる砂鉄採取が行われ跡地の耕地化が進められた。


飯田村
いいだむら

[現在地名]鹿島市大字飯田字飯田

有明海沿いにあり、矢浦やのうら村の南。この地は戦国時代に有馬氏から竜造寺氏の支配となり、藩政期は佐賀藩の親類神代くましろ家の知行地(川久保私領)であった。慶長絵図に「飯田」とある。嘉永六年(一八五三)写の大小配分石高帳には地米一八九石四斗二升四合とある。

明治四年(一八七一)伊福いふく村・江福えふく(天保郷帳になし、飯田村内か)・飯田村・(加)瀬浦せのうら村・竜宿浦やのうら(矢浦)村を併せて飯田村と称した(藤津郡村誌)が、同一一年加瀬浦村は音成おとなし村に属す。


飯田村
いいだむら

[現在地名]養老町飯田

牧田まきだ川支流で東流する小畑おばた川の右岸にある。小畑川の対岸南は飯積いいづみ村。古代条里の遺名と考えられるはちつぼなどの小字名が残る。慶長郷帳によると徳永昌勝領分が高一八八石余、石河光忠(石河氏はのち尾張藩家老)領分が高六八五石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では幕府領一八八石余・石河光忠領六八五石余。正保郷帳では尾張藩領で田七六八石余・畑一〇五石余。明暦覚書によれば一八八石余分の人数三五、馬三、概免三ツ三分二厘余。「濃州徇行記」では家数五三・人数二三〇(異本では三三〇)、馬八。宝永七年(一七一〇)の尾張藩甕年貢帳(徳川林政史研究所蔵)に当村紺屋の六平がみえ、藍甕数四で、四ヵ年分の甕年貢は銭一貫五〇文。


飯田村
いいだむら

[現在地名]小川町飯田

増尾ますお村の北、つき川支流かぶと川の右岸に位置し、北は笠原かさはら村など、東は大塚おおつか村。玉川たまがわ領に属した(風土記稿)。田園簿では田高八三石余・畑高五六石余で、幕府領。寛文八年(一六六八)の玉川領飯田村御縄打水帳(笠原家文書)では高一七二石余。国立史料館本元禄郷帳では旗本石黒領。化政期の家数六〇(風土記稿)。明治九年(一八七六)頃の戸数六〇・人数二九九、おもな物産には繭一五石・生糸五貫・生絹七五匹・(米あげザル)二千九〇〇個・薄莚二五〇駄などがあった(郡村誌)


飯田村
いいだむら

[現在地名]稲川町飯田

皆瀬みなせ川の中流左岸、雌長子内めちようしない岳の東麓に位置し、東は大館おおだて村、南は宮田みやた村に接する。

奥羽永慶軍記」の伝えるところでは文禄五年(一五九六)四月の小野寺・最上両氏の合戦で、最上氏が「久保・飯田」に陣を張ったという。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に八七石とある。宝永二年(一七〇五)の雄勝郡村々御黒印高牒(秋田県庁蔵)では高は本田二四石六斗七升二合、新田九五石五斗六升五合、合計一二〇石二斗三升七合(当高八八石一斗九合)


飯田村
いいだむら

[現在地名]白馬村大字神城かみしろ 飯田

姫川ひめがわ盆地中央部の姫川左岸の糸魚川いといがわ道と善光寺ぜんこうじ道の分岐点に位置する。

飯田の名は天正一〇年(一五八二)七月六日付で上杉景勝が西方房家に与えた宛行状(歴代古案)に「飯田・嶺岸・千国六百貫文之所」とあるのを初見とする。また飯田村御年貢麻麻手之帳(下川文書)によれば、寛永一六年(一六三九)四月、松本藩主堀田正盛はその家臣土屋光忠に命じて飯田村に対し麻の年貢を籾に替えて四九石三合と麻手籾三石を家数六〇軒に各五升ずつ割り付けているが、これにより江戸時代早期の麻の栽培やそれに付随する麻年貢・麻手籾について知ることができる。


飯田村
いいだむら

[現在地名]岩瀬町南飯田みなみいいだ

おお川左岸、岩瀬盆地の北部にあって、東は亀岡かめおか村。入野いりの村に通ずる道と門毛かどげ村へ通ずる道の分岐点となっている。天正一一年(一五八三)の笠間氏と益子氏の戦いでは益子方の先陣がこの地に番所を置き戦場となった(関東古戦録)

江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。延享四年(一七四七)の飯田村差出帳(安達家文書)によれば、村には堰一、溜池三、村山一、四壁山一三などがあり、戸数六一(水呑九、酒屋一)・人数二七〇、馬一六。


飯田村
いいだむら

[現在地名]いわき市鹿島町かしままち飯田いいだ

矢田やだ川右岸にあり、対岸は久保くぼ村、西と南は金成かなり村、北は米田こもだ村。磐前いわさき郡に属した。近世は磐城平藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録では高五四石余。慶長一三年(一六〇八)の岩城領分定納帳(内藤家文書)では高六五石余。正保郷帳では田方五二石余・畑方一四石余。元禄郷帳では高七七石余。延享四年(一七四七)の村明細帳(内藤家文書)によれば本田高七六石余・反別六町四反余、新高一三石余・反別一町一反余、家数一一(本百姓七・水呑四)、人数五七、馬七。


飯田村
いいだむら

[現在地名]鳥栖市飯田町いいだまち

秋光あきみつ川両岸の平地に広がり、東は筑後国との境界で限り、西は山下やました川西岸平地にまたがる。主たる集落は筑後国福童ふくどう(現福岡県小郡市)に接する。南西に枝村の重田しげたがある。

貞和七年(一三五一)の足利直冬安堵状(大宰府神社文書)に「一所肥前国飯田村田畠八町」とある。村には条里の遺構がみられ、その基線が国境となって小溝が南北に走っている。秋光川東岸に字じゆうつぼがある。


飯田村
いいだむら

[現在地名]姫路市飯田

飾西しきさい郡に所属。手柄てがら山の南から西に位置し、北東は栗山くりやま村。当村の西寄りを船場せんば川が南流する。天正三年(一五七五)の近村めぐり一歩記(智恵袋)に「玉手、亀山の間を飯田といふ」とあり、かつてこの村の南に五〇〇戸ほどの大村があったが、天福年中(一二三三―三四)の落雷で一家残らず焼失、天正頃は六〇戸ほどであったという。慶長国絵図に村名がみえる。


飯田村
いいだむら

[現在地名]小山市北飯田きたいいだ

鬼怒川とおもい川の間に広がる洪積台地上の北東部に位置し、東はやな村・高橋たかはし村、北は山田やまだ村。寛永五年(一六二八)の万相定覚(「秋田藩下野領郷村高辻帳ならびに古書写」国立公文書館蔵)に飯田村とみえ、高一八六石余、御足軽前とある。慶長一〇年(一六〇五)以降出羽秋田藩領。慶安郷帳では田方五二石余・畑方九七石余。


飯田村
いいだむら

[現在地名]碓井町飯田

上臼井かみうすい村の西に位置し、西は穂波ほなみ土師はじ(現桂川町)。人家は本村・八軒屋にあり、本村はかみ(東西八〇間)・下町(東西八八間)が町立てされていた(地理全誌)。弘化二年(一八四五)南の平山ひらやま村から分村した。飯田村記念碑には「平山村をわかちて、新たに二十余戸を建つ」とあり、松隈和四郎が策を講じて秋月藩主に分村を請うたという(碓井町誌)


飯田村
いいだむら

[現在地名]亀田かめだ郡七飯町字飯田町

近世から明治一二年(一八七九)まで存続した村。久根別くねべつ川の中流域、七重ななえ村の西に位置し、沖積台地上にある。安政年間(一八五四―六〇)七重村に八王子千人同心の子弟らが移住、養蚕・機業を生業とした。この御手作場が慶応四年(一八六八)飯田郷として一村立された(「匏菴遺稿」「箱館蝦夷地在勤中諸用留」など)。文久年中(一八六一―六四)には稲荷社が建立されている(「巡回日記」明治五年一〇月二二日条)


飯田村
いいだむら

[現在地名]土浦市飯田

桜川南岸の砂洲状地にあり、佐野子さのこ村の北西に位置する。江戸初期に土浦藩領となり、寛永八年(一六三一)に西尾忠照によって検地が実施された(「県方集覧」酒井泉氏蔵)。慶応元年(一八六五)頃作製の飯田村絵図(国立史料館蔵)には「早稲田四町六百歩、中稲田拾弐町八反四畝弐拾七歩、晩稲田六町五反歩」とある。桜川の出水によって、用水組合の堰場が被害を受けるため、安政七年(一八六〇)正月に七ヵ村の役人が「私共組合用水堰普請之儀年々御上様目論見書奉差上御願候、上御慈悲を以諸色入用等御定之通御下ケ被成下」(「飯田村酒井家日記」酒井源蔵氏蔵)と、藩の援助を要請している。


飯田村
いいたむら

[現在地名]佐野市飯田町

犬伏いぬぶし台地の南端に位置し、南は船津川ふなつがわ村。佐野川が村の南部を東流し、川の南に湿地帯があった。元禄郷帳では古くは「舘田村」と注される。慶安郷帳に村名がみえ、田高二七五石余・畑高三一四石余・野銭二八石余、下総古河藩領。寛文五年(一六六五)の検地帳(山崎光三文書)では田二六町八反余・畑三三町余、屋敷は一三三筆で八町七反余、名請人一二八。


飯田村
いいだむら

[現在地名]笠間市飯田

飯田川沿いにあり、東は福田ふくだ村。鎌倉中期から大嶺氏の領地で(聚成笠間誌)、字新谷しんや裏手の台地に飯田館があった。江戸時代は笠間藩領で、「寛文朱印留」に村名が載る。「郡官日省録」(武藤家文書)によると慶安二年(一六四九)の検地で村高八四七・二二三石となり、万治三年(一六六〇)・延宝四年(一六七六)の新開検地で合せて三六石余を打出す。「茨城郡村々様子大概」(笠間稲荷神社蔵)によれば、村には四壁山五八、竹藪三九などがあり、文化期(一八〇四―一八)の戸数七〇(木挽二、紙漉二、鍛冶三)・人数二八四、馬三一。


飯田村
いいだむら

[現在地名]宇都宮市飯田町

東は荒針あらはり村、北・西・南の三方は都賀つが郡。南西に山林が多く、北東はやや高く林野が多く、そのほかは平坦である。天正四年(一五七六)宇都宮国綱に従う武士のうちに大鼓奉行飯田城主飯田民部助がいる(那須記)。宇賀神永重家には同一九年の宇都宮領都賀郡飯田村山口御縄帳写、元和六年(一六二〇)の河内郡飯田山口御縄帳、元禄六年(一六九三)の都賀郡飯田村新田畑御縄帳などが残り、近世初期には都賀郡の内と考えられていた可能性もある。


飯田村
いいだむら

[現在地名]下館市飯田

大谷おおや川と小貝こかい川の合流点付近に位置し、西は陰沢かげさわ村。文明一〇年(一四七八)水谷勝氏が下館に築城後、同氏の支配地となる。江戸初期に下館藩領となり、元和九年(一六二三)の水野谷様御代下館領村々石高并名主名前控(中村家文書)と寛永一六年(一六三九)の下館領五万石村々石高牒(田宮家文書)に村高三〇〇・六八石とある。


飯田村
いいだむら

[現在地名]谷田部町飯田

中野なかの村の南、西谷田にしやた川西岸に位置。元和二年(一六一六)谷田部藩細川氏領となって廃藩置県に及び、幕末には上飯田かみいいだ村・下飯田村に分れ、「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)の村高は上飯田村九三・四〇二石、下飯田村一〇二・一七一石。


飯田村
いいだむら

[現在地名]千代田村飯田

東は下土田しもつちだ村、南は上土田村。下土田村からの分村と伝え、初めは飯田新田と称したが、正保―元禄期(一六四四―一七〇四)に飯田村となったといわれる(新編常陸国誌)


飯田村
いいだむら

[現在地名]三和町飯田、賀茂郡豊栄とよさか町飯田

飯田村(賀茂郡)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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