第55代天皇(在位850~858)。仁明(にんみょう)天皇の第一皇子。母は藤原冬嗣(ふゆつぐ)の娘順子(じゅんし)。諱(いみな)は道康(みちやす)。承和(じょうわ)の変(842)で皇太子恒貞(つねさだ)親王が廃されたので、かわって皇太子となり、即位後は次の皇太子に紀名虎(きのなとら)の娘静子の産んだ第一皇子の惟喬(これたか)親王をたてようとしたが、藤原氏の反対にあい、惟仁(これひと)親王(後の清和(せいわ)天皇)をたてた。天皇は巡幸遊覧を好まず政治に励み、また『続(しょく)日本後紀』の編纂(へんさん)を開始したが、病弱で万機を廃することが多く、政治の実権は藤原良房(よしふさ)にゆだね32歳で崩御。陵墓は京都市右京区太秦(うずまさ)の田邑(たむら)陵。天皇一代の歴史を編年体で記した『日本文徳天皇実録』10巻(879完成)がある。
[福井俊彦]
『藤木邦彦著『日本全史3 古代Ⅱ』(1959・東京大学出版会)』▽『佐伯有清著『伴善男』(1970・吉川弘文館)』
第55代に数えられる平安前期の天皇。在位850-858年。名は道康。仁明天皇を父とし,藤原冬嗣の女順子を母として生まれた。842年(承和9),嵯峨上皇の死を機として起こった承和の変によって皇太子恒貞親王が廃されたため,皇太子に立てられ,850年(嘉祥3)父仁明天皇の病死により位を譲られ即位した。しかし,藤原良房の強大な政治力によって,ほとんど天皇親政を行うことができず,その皇太子も,長子惟喬(これたか)親王の才能を愛したにもかかわらず,良房女明子の生んだ惟仁(これひと)親王(のち清和天皇)を立てざるをえなかった。しかも,858年8月27日,32歳の若さで急病により没,9歳の幼帝清和天皇の即位によって良房の摂政補任をみた。
執筆者:目崎 徳衛
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(瀧浪貞子)
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827.8.-~858.8.27
在位850.3.21~858.8.27
田邑(たむら)帝とも。仁明(にんみょう)天皇の第1皇子。名は道康(みちやす)。母は藤原冬嗣の女順子。842年(承和9)恒貞親王(淳和天皇の子)が皇太子を廃され(承和の変),かわって立太子した。850年(嘉祥3)仁明の死去により践祚。同年誕生の第4皇子(清和天皇)を皇太子に立て,外戚の藤原良房との結びつきを強めた。のちに長子惟喬(これたか)親王の即位を希望したとも伝えられる。
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…仁明天皇1代,833年(天長10)から850年(嘉祥3)にいたる18年間の歴史を記す。文徳天皇の命により,藤原良房,春澄善縄らが編纂にあたり,清和天皇の869年(貞観11)に完成奏上。以前の国史の体裁を追いながらも,天皇1代の実録としての性格を強めており,記事詳密,体裁も整備されている。…
※「文徳天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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